2020年7月31日

「0か1」で説明できない世界

量子物理が登場する以前の「古典物理」の世界において、物質は「ある」か「ない」かのどちらかだ。今使われている「古典コンピュータ」は、電気の流れに一定の「しきい値」を設け、それより下なら「ない=0」、上なら「ある=1」と定義してデジタル化する。そして0と1に対する2進数の演算操作を組み合わせ、繰り返すことで、高度な計算を高速に実行する。古典物理の法則を使って動作する古典コンピュータは、回路を集積し微細化することで高性能化を続けてきたが、それも限界が近づいてきた。
自然法則を支配する量子物理の原理で機能するコンピュータの必要性が1980年代から唱えられ、理論研究が進んできた。量子コンピュータでは、状態が0か1のどちらかに確定しない「重ね合わせ」状態が存在し、どちらの状態であるかの可能性は「確率振幅」という数値で記述される。そして、確率振幅は実数のみならず複素数の値を持つことができる。
量子コンピュータの計算単位は「量子ビット」と呼ばれる。複数のデータの「並列処理」が求められる計算では、量子ビット数が増加すれば「重ね合わせ」状態の特性を活かすことで、同時に複数の計算ができることとなり、古典コンピュータの計算速度を大きく上回ると期待されている。

独学からのスタート

藤井教授は2002年、京都大学工学部に入学した時点で「何か根本的で抽象的なことを研究したい」という願望を持っていた。量子力学に出会った時、大学1年で習う線形代数でほぼ理解できるようなシンプルなルールに魅せられ、「このルールを認めた上で、どういうゲームができるか」に焦点を定めた。しばらくして、科学誌で量子コンピュータの存在を知り「これだっ!」と没入していった。
もちろん、量子コンピュータを専門に研究する場はなく、「量子と名のつくものなら何をやってもいい」という素粒子理論の研究室に入り、教科書になる本を手に入れて独学で理論を身に着けていった。
既に方法論が確立され、社会実装が進んだ分野では、研究者1人あたりの専門は細分化され、それ故に一研究者が把握するのはその世界のごく一部でしかない。一方、量子コンピュータは2020年の今もまだ「黎明期」にあり、世界各国が我先にと凌ぎを削る状況にある。藤井教授は「ハードウエア以外のほぼ全て」に目を配りながら、中長期の課題抽出と解決に向けた理論研究を積み重ねている。

ブレークスルーの「証人」に

83_ryoshi_fujii_01.jpg2019年は歴史的な年になった。量子コンピュータが古典コンピュータの計算速度を超える「量子超越」を達成したとする論文が10月、米Google社(グーグル)から発表された。スーパーコンピュータでは1万年かかる計算が、グーグルの53量子ビットのマシンなら200秒で済む、ことを実証した、という内容だ。
2つのコンピュータが競い合ったのは、量子コンピュータの回路を用いてランダムなビット列を出力する作業を、スパコンでシミュレーションするという、量子の「ホームグラウンド」での戦い。実用上無意味な計算に勝利したに過ぎない。グーグルのライバルであるIBMは直後に「スパコンでも2.5日で終えられる」と反論した。それでも、量子コンピュータが特定分野で古典コンピュータを打ち負かした意味は大きい。今後、量子コンピュータの大規模化が進めば、両者の差は指数関数的に広がっていく。
この論文がネイチャー誌に掲載されるのに先立ち、藤井教授は世界で3人しかいない査読者(レビュワー)の1人に選ばれた。「いずれ通過しなければならないフェーズではあるが、いよいよこういう時代がやってきた」という実感と同時に、「誰もが知りたい論文が、いち早く僕に送られてきたことがうれしかった」という高揚感もあった。

現在地は「真空管」レベル?

とはいえ、万能コンピュータとしての量子コンピュータが完成するのは20年以上先とみられる。現在、動作しているシステムは、量子にあるノイズを除去せず、一定確率で発生する計算エラーの訂正機能を持たないNISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum Computer)と呼ばれるものだ。量子ビット数が増加すればエラーも増えるため、現状では1000量子ビットを超える大規模化は難しいと予想される。
古典コンピュータにもエラーはあるが、出力を検証して訂正する機能を備えることで、信頼に値する計算結果を出力できる。量子コンピュータの現在地を古典コンピュータの歴史に照らし合わせるとどの位置にいるのだろう?藤井教授は、半導体普及より前、耐久性に難のある真空管を2万本近く集めて巨大なシステムを構築していた1940年代に近い状態ではないかと指摘する。
では、NISQは「役立たず」なのだろうか。エラーがあっても活用する方法はないのか。
藤井教授の研究が、ここで一役買うことになる。藤井教授ら阪大のグループは2018年に〝Quantum Circuit Learning〟(量子回路学習、QCL)と題する論文を発表した。現代のAIは脳機能を模した数理モデル「ニューラルネットワーク」を古典コンピュータに実装したものだ。AIでは与えられた「教師データ」から正解を出力できるようにパラメータ調整をする学習を繰り返す。古典コンピュータより複雑な情報を埋め込める量子コンピュータを使い、高次元のパラメータを記述できれば、はるかに効率的な学習を進められるはずだ。
QCLの論文では、量子コンピュータのAIでパラメータを記述する方法論を提唱。発表から数カ月後にIBMがQCLを用いた実証実験を行い、ネイチャー誌に発表した。QCLは約2年で150以上の論文に引用された。
藤井教授がQCLを提案した背景には、約6年前の経験があった。現在は東京大学で特任准教授を務める中嶋浩平さんがタコの足を模したシリコーン製のロボットを作り、水中で泳がせる研究をしていた。タコ足の制御を脳にあたる外部装置で行うのでなく、タコ足自体に学習機能を実装する中嶋さんの試みに刺激を受けて、量子の分野でも活用する研究をNISQの登場以前から進めていたのだ。
藤井教授は「古典コンピュータの社会実装を実現するサービスは既に構築されている。実用に耐える量子コンピュータができれば、既存の枠組みにあてはめることで急速に発展していける」と今後の展望を語る。

ブラックホールの謎を解け

量子コンピュータの進むべき道はどこにあるのか。「古典コンピュータを凌駕するのは簡単ではない。当面は『量子性』が有効にはたらく分野での応用を考えることになる」と藤井教授はみている。
量子コンピュータと親和性が高いのは化学の世界だ。物質の分子や電子は量子物理の原理で動いている。光と水、二酸化炭素から酸素を生み出す光合成のしくみを解明したり、化学物質を生成するためのさまざまな触媒の開発などに強みを発揮しそうだ。
グーグルによる量子超越の論文で登場した、「無意味なビット列」の出力も、セキュリティ強化などのフィールドで生かせる仕組みを開発すれば、その時点で意味が生まれる。適性が高いとみられるAIの分野では、量子通信ネットワークや量子センサーなど、量子インフラとの組み合わせで、活用の場が広がるかもしれない。

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グーグルやIBMはNISQの高性能化を競っているが、その延長上でエラー訂正機能を備えた万能量子コンピュータの開発も進むだろう。自然界の法則と互換性を持つ量子コンピュータであれば、ブラックホールの謎などマクロな世界を、素粒子のふるまいなど量子力学が支配する超ミクロなレベルでシミュレーションが可能になり、謎の解明が進む可能性がある。

先の先を見据えた課題設定を

量子コンピュータの進化は最近10年ほどで一気に加速した。組み合わせ最適化問題に特化した「量子アニーリング」と呼ばれるマシンを、カナダのD-WAVE社が開発。刺激を受けたグーグルは2013年、米航空宇宙局(NASA)と協力して量子AI研究センターを設立し、世界の先端研究者を集めた。既に欧米諸国や中国などによる激しい開発競争が始まっている。
そんな中で日本の将来見通しはどうなのか? 1998年に量子アニーリングを提案した東京工業大学のチームなど最先端の研究者はいるが、NISQ開発など現在の潮流には乗り遅れた感がある。
しかし藤井教授は「日本は2016年以降に軌道修正し、先行事例の情報を収集し、後発の強みを生かして将来を見越した制度設計をしている」と悲観していない。大阪大学では、世界的にも最大規模の「量子」を専門とする研究者40名以上からなる量子情報・量子生命研究センターが立ち上がり、理論から実証にいたるまで多様な研究が繰り広げられている。2050年に100万~1億量子ビットを集積した万能コンピュータが登場することを念頭に置き、これから10年で何をすべきかにフォーカスする研究の下地は整いつつある。
次の次の時代で花開くテクノロジーの芽を見つけ出すことで、将来への展望は開けていくはずだ。

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●藤井啓祐(ふじい けいすけ)
大阪大学大学院基礎工学研究科/先導的学際研究機構 量子情報・量子生命研究センター 教授
2011年京都大学大学院工学研究科 博士課程修了、博士(工学)。同年大阪大学大学院基礎工学研究科 特任研究員、13年京都大学白眉センター特定助教、16年東京大学光量子科学研究センター助教、17年京都大学大学院理学研究科特定准教授、19年4月から現職。
専門分野は量子情報、量子コンピューティング。

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