世界初、クラウドサービス開始後の 量子コンピュータの大規模利用実態調査

世界初、クラウドサービス開始後の 量子コンピュータの大規模利用実態調査

量子ビットの品質向上・賢いアプリケーション設計が大規模利用への鍵

2024-6-1工学系
基礎工学研究科教授藤井啓祐

研究成果のポイント

  • 2016年以降、非専門家にも急速に広がった量子コンピュータ実機の利用実態を、世界で初めて大規模に調査
  • 量子コンピュータベンダーごとの戦略の違いや、アプリケーションの違いによる利用量子ビット数の違いが浮き彫りに
  • 今後、量子コンピュータの利用量子ビット数の大規模化に向けた指針設定へ貢献することに期待

概要

大阪大学大学院基礎工学研究科/量子情報・量子生命研究センター(QIQB)の藤井啓祐教授/副センター長らの研究グループは、量子コンピュータ実機利用論文を大規模に調査し、量子コンピュータのクラウドサービス開始以降の利用実態を世界で初めて明らかにし、調査結果を公開しました。

量子コンピュータは2016年のIBMによるクラウドサービスの開始や2019年のAmazon Braketによるサービスの提供以降、量子コンピュータを必ずしも専門としないユーザーでも一般に利用できる環境が急速に広がりました。それ以前の一部の量子コンピュータ開発者の実験の対象から、他の分野の研究者や一般のユーザーが利用できる計算資源として普及しつつあります。一方で、この変化以降の量子コンピュータの利用実態は定量的には捉えられていませんでした。

今回、藤井教授らの研究グループは、プレプリント投稿サイトarXivから2016年1月1日から2022年12月31日までに投稿されたプレプリントのうち、量子コンピュータベンダー5社(Google・IBM・IonQ・Quantinuum・Rigetti)の量子コンピュータ実機を使った768報を抽出し、アプリケーションの種類や実際に利用した量子ビット数などの情報を集計することにより、量子コンピュータの利用実態を定量的に明らかにしました。本調査で明らかになった、多くの量子ビットを用いたアプリケーションの傾向などから、今後の量子コンピュータの利用の大規模化への指針が明確になることが期待されます。

本研究成果は、英国科学誌「Nature Reviews Physics」に、6月1日(土)午前0時(日本時間)に公開されました。

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図1. (上)量子コンピュータを実際に利用したプレプリントの数の年次推移。(下)各年での実際に利用された量子ビット数の分布の年次推移(白丸:平均値、ボックス内の横線:中央値)。

研究の背景

量子コンピュータは量子力学の原理を用いて情報処理を行うコンピュータであり、特定の情報処理タスクについては、従来のコンピュータを大幅に上回る速度で動作することが理論的に知られています。

量子コンピュータの実機の開発は、2012年のJohn M. Martinisらのグループによる、量子誤り訂正の閾値を下回るエラー率をもつ超伝導量子ビットの開発以降急速に進み、2016年にはIBMが量子コンピュータのクラウドサービスを開始しました。さらに、2019年にはAWSから“Amazon Bracket”の提供が開始されました。これは、複数の異なるベンダーが提供する、量子コンピュータ実機が利用できるフルマネージド量子コンピューティングサービスです。これらのサービス開始により、量子コンピュータは、一部の専門家の研究開発の対象から、必ずしも量子コンピュータを専門としない研究者の利用対象へと意味づけが質的に変化し、いわば「民主化」したことになります。一方で、クラウドサービス開始によるこの質的変化以降の量子コンピュータの利用実態については大規模な調査は行われておらず、平均利用量子ビット数やアプリケーション先の傾向など、定量的な評価は行われていませんでした。

研究の内容

藤井教授らの研究グループでは、プレプリント投稿サイトarXivで、以下のすべての条件に該当するプレプリントを抽出しました。

(抽出条件)
■量子コンピュータに関するプレプリントが主に投稿されるquant-phセクション内のもの
■量子コンピュータのクラウドサービスが開始された年である2016年1月1日から2022年12月31日までに投稿されたもの
■量子コンピュータベンダー5社(Google・IBM・IonQ・Quantinuum・Rigetti)の量子コンピュータ実機を使ったもの

抽出された768報に対し、実際に利用された量子ビットの個数(以後「実利用量子ビット数」と呼びます)、アプリケーションの種類、量子コンピュータのベンダー情報などを読み取り、集計することで、クラウドサービスの開始以降の量子コンピュータ実機の利用実態を明らかにしました。より具体的には以下を明らかにしました。

1. 年間投稿プレプリント数はクラウドサービスの開始年である2016年以降増加し、2022年には安定化しました(図1上)。特にIBM製量子コンピュータの利用が多く、その理由として2017年のIBMによる量子コンピュータ用プログラム言語qiskitのリリースの影響が考えられます。

(ア) プレプリントのうち過半数が量子コンピュータの他分野への応用に関するものでした。また、システム・ソフトウェア開発や量子誤り訂正に関するプレプリントは2022年の時点でも数を減らしておらず、活発な研究がなされています。
2. 量子コンピュータベンダーの戦略の違いを明らかにしました。例えば、Google製量子コンピュータを利用したプレプリントは全てGoogle所属研究者が著者となっており、IBMのクラウド公開を通して量子コンピュータの一般利用を喚起する戦略とは異なる戦略をとっていると考えられます。この戦略の違いによりベンダー毎の平均実利用量子ビット数に大きな差が生じています。
3. 実利用量子ビット数は2022年のプレプリントでは平均値で10.3、中央値で6でした(図1下)。これは現在の量子コンピュータ実機では、多数の量子ビットで計算を行うと一般にはエラーやノイズの影響を完全には免れ得ないため、少数量子ビットの利用にとどめる利用法が多勢であるためと考えられます。
(ア) また、ベンダー所属研究者のプレプリントでは実利用量子ビット数が大きくなる傾向が認められました。量子コンピュータのユーザーが、一般ユーザーと、ベンダーなどに所属し、量子コンピュータ利用ノウハウを蓄積したコアユーザーに二極化していることが示唆されます。
(イ) システム・ソフトウェア開発や量子誤り訂正、量子誤り抑制に関するプレプリントでは実利用量子ビット数が大きくなる傾向があり、特に量子誤り訂正でその傾向が顕著でした。近年、量子誤り訂正の原理検証実験が度々報告されていますが、このトレンドをデータで確認できたといえます。
4. 実利用量子ビット数の平均値は大きな値ではないものの、2016年以降着実に増加しており、量子ビットの性能指標のひとつである量子ボリュームの値と連動していることが分かりました。これはハードウェアの着実な品質向上が、量子コンピュータ利用の大規模化の基盤になりうることを示唆しています。
5. 特に実利用量子ビット数が多いトピックとして、量子誤り訂正、サンプリング、量子多体系のシミュレーションなどが認められました。これらのトピックでは、ハードウェアの形状を意識した浅い量子回路の利用など、多数の量子ビットを利用してもノイズの影響を受けにくくするための工夫を凝らしたアプリケーションの設定が認められました。

また、本研究で構築したデータセットを可視化したウェブサイトを公開しています(https://fujiilabcollaboration.github.io/qc_survey_site/)。

本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)

本研究成果により、量子コンピュータの利用の大規模化への指針が明確になることが期待されます。

ひとつには、量子ビットの品質の向上です。量子ビット数が多数あっても、その品質が低ければ一部の量子ビットしか利用できません。古典コンピュータでもシミュレーションが難しくなる50~100量子ビットの高品質な量子ビットが一般ユーザーの利用を拡大するための鍵となります。

もうひとつは物質系のシミュレーションや量子誤り訂正の実証実験などの比較的浅い回路で動作し、ハードウェア特性をうまく取り込むように設計されたアプリケーションです。また、イオントラップや中性原子を利用した量子コンピュータのような新規プラットフォームを活用することも大規模化に資する可能性があると考えられます。

このように、量子コンピュータのハードウェア開発と、ハードウェアの特性を活かしたアプリケーションの設計や量子誤り訂正などのソフトウェア開発がいわば両輪として展開されることが、量子コンピュータのより大規模な利用が可能になるために必要であることを、本研究成果は示唆しています。

特記事項

本研究成果は、2024年6月1日(土)午前0時(日本時間)に英国科学誌「Nature Reviews Physics」(オンライン)に掲載されました。

タイトル:“Current numbers of qubits and their uses”
著者名:Tsubasa Ichikawa, Hideaki Hakoshima, Koji Inui, Kosuke Ito, Ryo Matsuda, Kosuke Mitarai, Koichi Miyamoto, Wataru Mizukami, Kaoru Mizuta, Toshio Mori, Yuichiro Nakano, Akimoto, Nakayama, Ken N. Okada, Takanori Sugimoto, Souichi Takahira, Nayuta Takemori, Satoyuki, Tsukano, Hiroshi Ueda, Ryo Watanabe, Yuichiro Yoshida and Keisuke Fujii
DOI:https://doi.org/10.1038/s42254-024-00725-0

なお、本研究は、MEXT Q-LEAP フラッグシップ(課題番号: JPMXS0120319794)、JST 共創の場形成支援プログラム(課題番号:JPMJPF2014)、内閣府総合科学技術・イノベーション会議の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)「先進的量子技術基盤の社会課題への応用促進」(研究推進法人:QST)の研究テーマのひとつ「量子・古典ハイブリッドテストベッドの利用環境整備」、科研費(課題番号:JP22K11924、JP21K20536、JP19H05817、JP19H05820、JP21H05182、JP21H05191、21H04446)、および計算科学振興財団の助成により行われました。

参考URL

用語説明

量子ビット

量子コンピュータにおける情報の最小単位。通常のコンピュータ(古典コンピュータ)におけるビットに対応するが、通常のビットにおける「0」と「1」の重ね合わせを許す。

プレプリント

論文の原稿のこと。数物系科学コミュニティでは、論文の出版までに時間がかかることもあるため、迅速な情報共有のためにプレプリントを公開するという慣習がある。arXivは公開先として有力なウェブサイトである。

量子誤り訂正

量子ビットを多数組み合わせて情報に冗長性を持たせることで 、ノイズによる計算の誤りに対して頑強に動作するような機構のこと。

中央値

数値データを大きい順に並べた時に、順位が中央にある値のこと。偶数個のデータの場合は中央  の二つの値の平均値とする。

量子誤り抑制

エラーやノイズを受けた複数の量子回路からの出力を古典コンピュータにより事後処理することによって、正しい計算結果を推定する方法のこと。

量子ボリューム

量子コンピュータの品質指標のひとつ。この値が大きいほど、多数の量子ビットによる計算や、実行ステップ数が多い量子回路を用いた計算を実行することができる。

浅い量子回路

入力となる量子ビット数に比較して、量子回路の深さが小さい量子回路のこと。