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大規模量子コンピュータ完成!まで待たなくていい。 MRIに施す量子センシング技術が医療を変える

先導的学際研究機構・特任准教授(常勤)・根来 誠

アポロ計画を代表とする宇宙開発競争が、数々の先進技術を生みだしたように、量子コンピュータ開発で培われる技術もまた、様々な恩恵を人類にもたらしてくれる。 例えば、医療の現場で当たり前にあるMRIの高感度化がそうだ。  脳や血管、臓器など人体の深部を画像化するMRI(核磁気共鳴画像法)の日本での普及率は世界でもトップといわれ、多くの病院で診断に威力を発揮している。その仕組みは、体内に存在する水の分子に電磁波を当て、水素原子から返ってくる微弱な信号を解析するものだ。化学分析で活躍するNMR(核磁気共鳴法)も同じ原理だ。だが原子核が発する信号が微弱すぎて、感度が悪かった。大阪大学先導的学際研究機構 量子情報・量子生命研究センターの根来誠 特任准教授(常勤)(以下、根来准教授)らは、その信号強度を室温で約1万倍まで高めることに成功し、次世代MRI技術の開発に道筋を付けた。「薬が体のどこで、どんな風に効いているか、代謝の様子がリアルタイムで分かるようになる。きっと医療が激変する」と期待する。この技術は量子コンピュータ開発の過程で大きく進化を遂げた。量子状態を精密制御する技術は「量子技術2.0」と呼ばれ、その先には量子シミュレーションや量子通信、量子センシングなど幅広い可能性が広がっている。


量子技術でMRIの感度向上。核スピンの“弱さ”を補う

 電子や原子核はスピンという、非常に小さな磁石の性質を持っている。水分子(H2O)に電磁波を当てると原子核が共鳴し、信号が返ってくる。しかし通常の状態では核スピンはばらばらの方向を向き、お互いの信号が打ち消しあってしまう。このため強い磁場をかけて磁石の向きをそろえてやるのだが、核スピンの磁力が弱いため3万分の1くらいしか方向がそろわない。磁石の向きがそろっている率を偏極率と呼ぶが、この例だと偏極率は0.0033%ということになる。

 根来准教授は「3万分の1の偏極率というと、1万5千個の小さな磁石が上を向き、1万5千と1個が下を向いているような状態です。そこから磁石1個分の信号だけを読み取るわけです。人間の体の約6割、約40キログラムが水だといわれています。今のMRIの微弱な信号では、大量に存在する水の動きしか見ることができない。信号を1万倍にアップできれば、たとえば注射器で注入した4グラムの薬剤の動きを同じ分解能で見ることができるし、分解能を落とせばさらに少量の薬剤が見られる」と話す。

 核スピンの偏極率を高める工夫は従来からあった。その一つが1950年代に実証されたDNP(動的核偏極)という方法だ。

 これは水素の核スピンに比べ電子スピンの方が磁石としての性質が660倍も強く、同じ環境であれば電子のスピンがそろいやすいという性質を利用する。電子スピンも核スピンも、静磁場の下ではコマが首を振りながら回るような運動(歳差運動)を行っている。そこに電子スピンが共鳴する波長のマイクロ波を照射すると、電子スピンの向きが核スピンに伝わるというのだ。DNP法では核スピンの偏極率を、原理上は660倍に高めることが可能になる。

 だがこの方法には、熱の影響を避けるため試料を絶対零度(マイナス273℃)近い極低温に冷やしたり、強い磁場を実現するために超電導磁石が必要になるなどの難点があった。量子はとてもデリケートで、私たちの世界は量子にとって雑音が多すぎるのだ。

世界に先駆け達成した「室温超偏極」

 そこで阪大の北川勝浩教授らの研究グループが長年研究を進めてきたのがトリプレットDNPという手法だ。

 ペンタセンなど一部の有機化合物は、普段は逆向きのスピンを持つ電子が対になり、互いが磁力を打ち消しあっている。しかし、レーザー光を照射してやると電子の軌道が不安定になり、一瞬だけ磁石の性質が表れる。しかもその電子スピンは、量子力学的な原理により、非常に高い偏極率を持つことが分かっている。このような物質を、「調べたい」と思うサンプルに少量加え、レーザー照射後の極めて短い時間(5万分の1秒程度)内にDNPを施すことで、サンプルの核スピン偏極率を高めるというアイデアだ。温度に依存しないため、室温でも可能という利点を持つ。当時、助教としてこの研究に携わっていた根来准教授は2014年に偏極率を34%、通常のMRIの1万倍に高めることに成功した。根来准教授らは、この手法を「室温超偏極」と名付けた。今は、ドイツ、スイス、アメリカなど世界でも室温超偏極の研究が拡がりをみせている。

抗がん剤の効き目をリアルタイムで検証

 根来准教授に、MRIを高感度化することの具体的な利点を尋ねると「たとえばピルビン酸という物質を、核スピンをそろえた状態で血管に注射します。ピルビン酸はがん細胞では乳酸に、健常な細胞ではアラニンという物質に変わります。その動きをMRIで追跡し、『あっ、ここで乳酸が増えてきた』『乳酸が増えるのに何秒かかった』などとリアルタイムで知ることができる。どの薬が効いているのかが、タイムリーに分かるようになります。例えば、いままでPET(陽電子放出断層撮影法)を使って、がんが大きくなったかどうか1カ月かけて調べた抗がん剤の効果判定が1日程度で済む。もし任意の物質で室温超偏極が可能になれば、装置の小型化やコストダウンが可能になる。ピルビン酸以外にも、いろんな分子をセンサーとして、いろんな病気への応用が期待されます。今は、量子性を保ったまま(核スピンの向きが揃ったまま)患部まで薬剤を届けることができるよう医師なども含めた研究チームで技術開発の研究を続けています」という。

量子センシングは、材料分析の常識も変える

 化学分野への応用も、有望だ。

 「NMRは材料分析やタンパク質の構造解析など、幅広い分野で利用されています。現在のDNP NMRは極低温で用いるものです。いわば極限の環境での物質しか見ることができていません。私達は2019年に一般的なNMR分光装置にトリプレットDNP装置を結合させ、室温で感度を200倍に高めることに成功しました。まず室温での物質の状況をみることが可能になります。そして感度が上がれば、今まで何度も測定を繰り返し、データを積算していた微量物質の分析も、ワンショットで済む。また異なる物質が接する界面は、微小なシグナルしか得られません。その分析が可能になれば、ゴムやフィルム、触媒、多孔性物質などの新しい機能性材料の開発につながります。膜タンパク質の構造分析など、生物学研究でも注目されています」

培った量子技術はきっと何かの役に立つ

 根来准教授はもともと量子コンピュータの研究者だった。それがなぜMRIやNMRの研究に足を踏み入れたのか?

 「量子コンピュータにはさまざまな方式がありますが、私は核スピンの状態(スピンの向きなど)を情報の単位(量子ビット)として扱う方法を研究していました。それには核スピンの向きを初期化、つまり、いったんそろえてやる必要があります。算盤をつかうとき、最初にご破算して玉をそろえるようなものです。算盤の玉が核スピンですね。ただ核スピンの磁力は非常に弱いので、熱によるかく乱を受けやすい。それを克服する方法としてトリプレットDNP法を研究し、34%の偏極率を達成しました。量子コンピュータの実現には99%の偏極率が必要です。まだまだ道のりは遠い。しかし、34%でも画期的な技術で、これをほうっておくことはできない。何かに役立てられないかと見回したとき、MRIによる新規診断やNMRによる材料分析への応用があったのです」

 そこには時代背景もあったという。

 暗号などに用いられる素因数分解を、量子コンピュータなら短い時間で解けてしまうことを1994年に米国の数学者ショアが示し、世界中で量子コンピュータブームがおきた。しかし実用化には高い壁があることが明らかになり、一時の熱気は去り、やがてこの研究分野に「冬の時代」が到来。今でこそ研究競争が世界中で激化しているが、2010年代前半の量子コンピュータ分野は「いつ出来るかもわからないテーマ」という扱いで、研究予算やポストが得られにくい状況になってしまっていた。そんな中で、多くの研究者は「出口の見える」テーマへと軸足を移さざるを得なかった。だがその先に大きな沃野が広がっていた。

夢物語への投資が世界を変えてきた

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 分子や原子などミクロの世界を扱う量子力学が誕生して100年余り。半導体やレーザーなど量子の性質を利用した技術は人類に大きな恩恵をもたらした。2021年を迎える現在、世界中で盛んにおこなわれている量子研究は、量子状態を自在に制御し利用しようとするものだ。それが「量子技術2.0」である。

 「量子コンピュータは量子技術2.0の一丁目一番地」という根来准教授は「グーグルやIBMなどが巨額の投資を始めた今は量子コンピュータの第2次ブームといえます。でも私はこのブームだけで実現まで乗り切れないかも知れないと思う。また冬が来る可能性もある。しかし、人間を月に送ったアポロ計画がさまざまな技術を生んだのと同じように、大規模量子コンピュータというチャレンジングな研究からたくさんの技術が派生します。だからこそ、“夢物語”と切り捨てずに、長期的な投資分野だと期待してほしい」と訴える。

そして根来准教授は「あと10年で次世代MRIに一応の片がつく。その次は本腰を入れて大規模量子コンピュータの実現にチャレンジしたい」と自身もまた夢に向かう決意を語った。

  

根来准教授にとって研究とは

世界と社会を変えるもの。 誰も知らなかった世界が、自分だけが知っている世界に変わる。 そして誰も知らないことには、まだ見ぬ応用があるかもしれない。 「これ、何の役に立つかな」と考えるのは見つけた人の特権です。 せっかく得たチャンスなのだから、それを使って社会を変えたいですね。

■ 根来誠(ねごろ まこと)

大阪大学先導的学際研究機構特任准教授(常勤)

2005年大阪大学基礎工学部電子物理学科卒業、07年同大学院基礎工学研究科博士前期課程修了、11年同博士後期課程修了。同年大阪大学大学院基礎工学研究科システム創成専攻助教、19年2月から現職。20年量子科学技術研究開発機構量子生命科学領域グループリーダー(クロアポ)。理学博士。

   

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■  量子コンピュータの実現や、量子の真理を解き明かそうと奮闘する研究者たちの物語「あなたと量子~“新鋭”のスペシャリテ~」を引き続きお楽しみください。

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(2020年11月取材)