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量子コンピュータ 使い方のリアル。計算化学者が追う量子と古典のハイブリッド・アルゴリズム

先導的学際研究機構・特任准教授(常勤)・水上渉

「量子コンピュータはいつ実現するか?」で語られる「量子コンピュータ」は、私たちが日頃つかうコンピュータのように、計算結果に誤り訂正機能を有して、かつ途轍もない計算能力をもった「万能な」量子コンピュータを指すことが多い。いま世界中で研究開発競争が激化している。しかし、この完成形とも言える量子コンピュータの登場には、あと20~30年ほどかかるらしい。 「あ、なんだ夢物語か」と思った方にこそ、この記事を読み進めてほしい。 今から5年後には、「ある分野」で完成形を待たずとも量子コンピュータがもつ脅威の計算能力を活かすことができるかもしれない。市場へのインパクトの大きさと、90年に及ぶ研究の積み重ねから期待されているのが、量子化学分野への応用だ。医薬品や工業製品、生体の内部で起こる代謝など、「化学」は私たちの生活に密接している。複雑な化学反応を予測するための計算に対する需要は大きく、現在のスパコンでも解き明かせない化学反応のメカニズムは多い。 では、どのように未完成の量子コンピュータの力を応用するのか、計算化学分野で新たなアルゴリズム開発に意欲的に挑む大阪大学先導的学際研究機構量子情報・量子生命研究センター(QIQB)の水上渉・特任准教授(常勤)(以後、水上准教授)に話を聞いた。人間の目には見えない化学反応を、量子コンピュータを使って可視化する「究極の顕微鏡」の誕生はすぐそこだ。


見えない化学反応を、計算で「見る」

現在、スパコンを使ってなされる計算の約4割は化学分野だといわれる。物質の構造を調べたり、分子同士がどのように相互作用して化学反応が進むのか、あるいは薬の候補になりそうな物質を探したりという研究には複雑な計算を高速で行う必要があるからだ。

 水上准教授は「化学の難しさは、分子が小さすぎること、かつ動きが速すぎることにあります。たとえば水素原子の直径は100億分の1.1メートル(1.1×10-10m)。 1mが地球の直径になるまで拡大したとしても、水素原子はスパゲッティの直径程度(1.4mm)にしか相当しない。宇宙から地上にあるスパゲティの穴を見るようなもの。非常に小さい。また水素と酸素が振動するときの速さは100兆分の1秒(10×10-15秒)。これを1秒に置き換えれば、私たちの世界の1秒は320万年に相当します。分子は小さくて速い。こんなに小さく、超高速で動くものを観測することは非常に難しい。しかし計算でシミュレーションできれば、我々が見ることのできるスケールで化学反応を再現できます。見えないはずの世界が、ディテールをもって見える『究極の顕微鏡』になり得る」と話す。

ディラックの想像を超えた90年

 原子や分子の振る舞いを計算する基礎となる基本法則は20世紀初頭の量子力学の完成で整った。量子力学誕生の立役者の一人であるポール・ディラック(1902~1984年、1933年にノーベル物理学賞受賞)は1929年の時点で「化学を数学的に扱うための基本法則はすべて分かっている」と述べている。第一原理量子化学計算がそれだ。だが化学現象を記述する方程式を知っていることと、それが実際に解けるかどうかは別の問題である。水上准教授は「当時、ディラックが言ったのは『頑張れば方程式を解けるかもしれないが、現実的には複雑すぎて無理だよね』という文脈でだった」と解説する。

 化学が取り扱う分子の組み合わせは無数にある。物質の分子の数が増えれば、計算の複雑さは指数関数的に倍々ゲームのように増えてしまう。このため化学者は複雑な物質の反応を、よりシンプルなモデルに置き換えたり、方程式の厳密な解を求める代わりに計算しやすい近似式を工夫するなどの努力を続けてきた。ディラックより後の時代の研究者たちによる幾重もの知恵と工夫で、量子化学計算はその精度を高めていった。

シミュレーションで見えた真実

 アルゴリズム(計算法)の進歩と、さらにコンピュータ自体の計算能力の向上により、1970年頃からコンピューターシミュレーションを化学の問題解決に援用できるようになってきた。現在でも広く使われている計算化学用ソフトを開発した理論化学者のポープルは、この業績で1998年にノーベル化学賞を受賞している。

 計算化学が化学反応のメカニズムを解き明かしたケースに、金属ナトリウムと水の反応の例がある。

 金属ナトリウムを水の中に放り込むと、爆発するように激しく反応することが知られている。しかし、反応速度があまりに速すぎるため、実際にどんな反応が起こっているのか、その詳細なメカニズムは長らく不明だった。反応の瞬間をとらえた超高速カメラでも実態が分からなかったが、近年、コンピューターシミュレーションで明らかになった。実は、ナトリウムが水に触れた瞬間、電子が奪われ、プラスの電荷を帯びたナトリウムイオンになり、プラスのイオン同士が激しく反発し、中からまた別のナトリウムが出てきて水と反応をするというのを繰り返すプロセスが隠されていた。

水上准教授自身も、マックス・プランク・ポリマー研究所や大阪大学大学院基礎工学研究科などとの共同研究により、深海魚が多くもつ、水圧にタンパク質が耐えられるようにする物質(TMAO)の振る舞いを、量子化学計算でシミュレーション。その動きが、従来考えられていたものと異なることを解明した。

計算化学分野に漂う停滞感

 「化学反応は分子レベルの微妙なエネルギーの差に支配されます。この小さなエネルギー差を議論できるのが計算化学の強み」という。一方で、「微妙なエネルギー差を見るためには、化学計算には99.99%の精度が必要とされています。現在の標準的な量子化学計算の精度は99.8%程度と今ひとつ及ばず、外れもある天気予報のような状態。私達も信頼しきれず、少し疑いの目を持って計算結果を見ざるを得ないような段階です」

 精度を上げるには計算コストをどんどんかける方法もあるが、それも電子同士の絡み合いが強いケースだと高性能のスパコンでも計算が破綻してしまう。精度向上の傾向も、現在は停滞している状況にある。

 この壁を突破するには「0」と「1」の組み合わせを1ビットとして計算する従来型の古典コンピュータではなく、ミクロの粒子が持つ多様な状態を量子ビットとして多くの情報を一度に計算できる量子コンピュータの登場を待たねばならない。だが量子ビットはノイズに弱く、計算の過程でエラーが忍び込むという弱点があり、エラー訂正機能をもった量子コンピュータが完成するにはいくつもの技術的な壁を超える必要がある。

 学生時代に量子コンピュータの話を聞いた水上准教授も「面白いけれど、すぐ化学計算の役に立つとは思えなかった。それよりも古典コンピュータのアルゴリズム開発を頑張ったほうがいいと思った」と振り返る。

量子と古典のハイブリッドで切り拓け

 閉塞感の漂う状況に登場したのが、量子コンピュータ、古典コンピュータそれぞれの弱点を補い合う量子古典混合アルゴリズム(VQE)だった。

 量子コンピュータは複雑な計算が可能だが、ノイズに弱く、正常に稼働する時間が極めて短い。そこで量子コンピュータによる計算結果をいったん古典コンピュータに預け、その結果を再利用して量子コンピュータで計算を続ける。こうした役割分担を繰り返すことで、量子コンピュータを長時間稼働させたのと同じ効果を得るというアイデアだ。

 VQE理論が2014年に発表されたとき、水上准教授は「量子化学にとって新しいフロンティアを切り拓き得る筋の良さ」を感じたという。それは電子回路の集積化の困難や、膨大な電力消費量などスパコンの進歩にも限界を感じていたためでもある。

 「量子化学計算も、1970年代、80年代には誰も使い物になるとは思っていなかった。量子コンピュータによる化学計算も、それと同じように今は黎明期。でも10年後に何が起きるか、誰にも分からない。私は化学者なので、化学の計算で進展があればよい。壁をぶち破るには量子コンピュータをやるべきだと思った。しかし計算機のパワーが向上しても、アルゴリズムの進歩が伴わなければ使い物にならない。まず研究者に役に立つツールをつくることで、化学全体にコントリビュートしたい」と、水上准教授はリアリスティックに未来を手繰り寄せようとしている。

 もしも、「量子誤り訂正」機能をもつ量子コンピュータが実用化されたとき、どのような世界がひらけるのだろうか。

 「たとえば空中窒素の固定や、人工光合成につながるかもしれません。肥料の原料となる窒素を空中からつくるハーバー・ボッシュ法は20世紀初頭に開発され、食料増産に貢献しました。しかし高温高圧の条件が必要で、世界で使用される1~2%に相当する膨大なエネルギーが必要です。ところが生物は室温というマイルドな条件で、窒素をつくる賢い仕組みを持っています。それを真似できれば、画期的な触媒の開発につながるかもしれません」

 とはいえ「決してバラ色の未来が広がっているわけではない」という。「産業界には『今すぐにでも量子コンピュータを使えるんじゃないか』と思われている方が多い。しかし、科学は直線的には進みません。これからいくつも壁があるでしょう。大きな可能性を秘めているので、一時的な流行で潰えさせず、中長期的な挑戦と理解が必要」とクギを刺す。「まずは5年後に、実際に化学者の役に立つものを実現させて、ひとつ壁に風穴を開けたい」と淡々と話す姿は、夢の実現が近いことを予感させてくれた。

 

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水上准教授にとって研究とは

僕にとって研究とは旅のようなもの。目的地はあっても、道を知らないので、若干あてどもない旅でしょうか。しかし歩いていると今まで見えてなかったものが見えるようになる。ドキドキ・ワクワクするし、歩き疲れることもある。それも含めて、楽しいものだと思う。

●水上 渉(みずかみ わたる)
大阪大学先導的学際研究機構量子情報・量子生命研究センター特任准教授(常勤)。

2006年京都大学工学部工業化学科卒。08年東京大学大学院工学研究科博士前期課程修了。11年総合研究大学院大学物理科学研究科博士後期課程修了。英国ブリストル大学Marie Curieリサーチフェロー、理化学研究所基礎科学特別研究員、九州大学総合理工学研究院助教などを経て19年7月から現職。理学博士。専門は量子化学計算。

   

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■  量子コンピュータの実現や、量子の真理を解き明かそうと奮闘する研究者たちの物語「あなたと量子~“新鋭”のスペシャリテ~」を引き続きお楽しみください。

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(2020年11月取材)