“発がん性化学物質”と“心理的苦痛”のリスクを「損失幸福余命」で評価

“発がん性化学物質”と“心理的苦痛”のリスクを「損失幸福余命」で評価

質の異なるリスクの比較が可能に

2024-4-3生命科学・医学系
感染症総合教育研究拠点教授村上道夫

研究成果のポイント

  • 多様なリスク事象の大きさを比べるために開発された「損失幸福余命」を用いて、日本の環境中発がん性化学物質と心理的苦痛のリスクを評価した。
  • 本研究により、質の異なるリスク事象の大きさを比較することができた。
  • 損失幸福余命は、幸福余命(幸福な気分で過ごす余命の長さ)の一人あたりの平均的な短縮時間を指し、リスク事象に伴う幸福度の低下と死亡率の増加の両者を組み合わせて計算される。
  • 本研究で、初めて発がん性化学物質の損失幸福余命が算出された。
  • 損失幸福余命は、ラドンでは0.0064年、ヒ素では0.0026年、大気中微小粒子状物質(PM2.5)では0.00086年、心理的苦痛では0.97年であった。
  • 本研究の知見は、人々が幸福に長生きするための政策の判断材料として活用できる。

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図1. 発がん性化学物質と心理的苦痛の損失幸福余命。PM2.5は2020年の値をあらわす。

研究の概要と成果

大阪大学感染症総合教育研究拠点の村上 道夫教授と慶應義塾大学医学部 医療政策・管理学教室の野村 周平特任准教授((兼)東京大学大学院医学系研究科特任助教、(兼)東京財団政策研究所主席研究員(論文発表時))らの研究グループは、「損失幸福余命」という尺度を用いて、日本の環境中発がん性化学物質と心理的苦痛のリスクの大きさを比較しました。

損失幸福余命とは、幸福余命(幸福な気分で過ごす余命の長さ)の一人あたりの平均的な短縮時間を指し、リスク事象に伴う幸福度の低下と死亡率の増加の両者を組み合わせて計算されるもので、質の異なる多様なリスク事象の大きさを比較することができます。本研究によって、初めて発がん性化学物質の損失幸福余命が算出されました。

その結果、ラドン、ヒ素、2012年の大気中微小粒子状物質(PM2.5)、2020年のPM2.5、心理的苦痛の損失幸福余命は、それぞれ、順に0.0064年、0.0026年、0.011年、0.00086年、0.97年と算出されました。幸福余命に対するこれらの発がん性化学物質がもたらした損失の寄与率はいずれも10万分の1を超過し、これらのリスクの低減は環境政策上重要であると考えられました。

本研究では、損失幸福余命を用いることで、環境中発がん性化学物質や心理的苦痛など、質の異なるリスクの比較が可能であることが確認されました。この知見は、人々が幸福に長生きする社会を目指す政策の判断材料として活用できます。

本研究成果は、オランダ科学誌「Environmental Research」に、2024年3月8日(金)に公開されました。

研究の背景

様々なリスクの大きさの比較は、公衆衛生上の優先順位の高い課題を明らかにするなど、人々や社会の意思決定を支える基盤となります。種類の異なるリスクを比べるためには、共通の指標を用いる必要があり、これまで、死亡率、発がん率、損失余命(余命の平均的な短縮時間)、生涯調整生存年といった指標が提案されてきました。

近年、環境政策において、幸福の向上を加味することの重要性が指摘され、その評価事例も増えてきています。村上らは、リスク事象に伴う幸福度の低下と死亡率の増加の両者を組み合わせて計算される損失幸福余命というリスク指標を提案しています。これまでに、福島第一原子力発電所事故後の放射線被ばくに伴うがんと心理的苦痛のリスクの比較、事故後の故郷への帰還に伴うベネフィットと放射線被ばくに伴うがんのリスクの比較を行ってきました。しかし、環境中の発がん性化学物質への損失幸福余命指標の適用はこれまでされていませんでした。環境中発がん性化学物質の損失幸福余命の評価と医学分野の他のリスクとの比較は、環境政策における優先順位づけや経年的なリスク低減効果の評価など、政策立案における判断材料を提供できます。

そこで、本研究では、「損失幸福余命」を用いて、日本の環境中発がん性化学物質と心理的苦痛のリスクの大きさを比較しました。

研究の方法

損失幸福余命は、①性別年齢階層ごとの幸福度の値の算出、②疾病(がんなど)による幸福度の低下の有無、③リスク事象による死亡率の増加を組み合わせることによって算出されます。①と②については、日本在住の一般パネルのモニター5000名とがんの既往歴を持つパネル850名を対象に、それぞれ2022年7月と9月に行われたオンラインアンケート調査によって解析されました。

幸福度に関しては、「昨日、あなたは幸せを感じましたか」という問いに対して、「はい(1)」または「いいえ(0)」で回答を求めることで、対象集団の平均値を算出しました。これは、幸福度の中でも「情動幸福(瞬間的な幸福感情)」を表すこと、および、2値データが比率尺度の特性を持つことに着目したものです。これにより、損失幸福余命の算出において四則計算が可能となり、リスクの大きさを定量的に比較することができます。

まず、がんの罹患と幸福度の関連を男女別に統計的に解析した結果、がん以外の要因(年齢、職業、がん以外の既往歴など)を調整しても、有意な低下は見られないこと、および、がん罹患者の中でもがんの種類、罹患歴、ステージと幸福度に有意な関連がないことを確認しました。一方、心理的苦痛に伴う幸福度の低下については既報(Murakami et al., 2018, Science of The Total Environment)から、男性で−0.19、女性で−0.22を用いました。

リスク事象に伴う死亡率の増加については、次のように算出しました。発がん性化学物質については、それぞれの曝露量と用量反応式から死亡率を算出しました。心理的苦痛については、死亡率の増加を加味しませんでした。これは、心理的苦痛のリスクの大きさを過小評価している可能性があることを意味します。


本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)

本研究では、日本の環境中発がん性化学物質と心理的苦痛の大きさを明らかにしました。心理的苦痛のリスクは際立って大きく、そのリスク低減は公衆衛生上の重要課題といえます。発がん性化学物質のリスクは、心理的苦痛と比べると2~3桁低いものでしたが、幸福余命に対する損失の寄与率はいずれも10万分の1を超過しており、これらのリスク低減は依然として環境政策上重要であると考えられました。また、PM2.5のリスクは2012年から2020年にかけて大きく減少しており、近年の大気環境の顕著な改善を裏付けています。

本研究成果の重要な意義は、損失幸福余命を用いることで、環境中発がん性化学物質や心理的苦痛など、質の異なるリスクの比較を可能であることを示した点にあります。本研究で示した分析のフレームワークと本研究から得られた知見は、人々が幸福に長生きする社会を目指す政策の判断材料として活用できます。

特記事項

本研究成果は、オランダ科学誌「Environmental Research」に、2024年3月8日(金)に公開されました。

タイトル:Comparing the risks of environmental carcinogenic chemicals in Japan using the loss of happy life expectancy indicator
著者名:村上 道夫(大阪大学感染症総合教育研究拠点)、小野 恭子(産業技術総合研究所安全科学研究部門)、竹林 由武(福島県立医科大学医学部)、坪倉 正治(福島県立医科大学医学部)、野村 周平(慶應義塾大学医学部、(兼)東京大学大学院医学系研究科、(兼)東京財団政策研究所)
DOI: https://doi.org/10.1016/j.envres.2024.118637
Share Link(2024年5月2日までフリーアクセスでPDFのダウンロード可):https://authors.elsevier.com/a/1ilU13Ao67S8b

本研究は、科学研究費助成事業(JP20H04354)と日本財団・大阪大学 感染症対策プロジェクトの一環として行われました。

参考URL

SDGsの目標

  • 03 すべての人に健康と福祉を