下水疫学に基づくCOVID-19感染者数予測モデルを開発

下水疫学に基づくCOVID-19感染者数予測モデルを開発

定点把握への移行後における感染動向予測ツールとしての社会的活用に期待

2023-1-23生命科学・医学系
感染症総合教育研究拠点特任教授(常勤)村上道夫

概要

北海道大学大学院工学研究院の北島正章准教授、同大学院工学院修士課程の安藤宏紀氏及び大阪大学感染症総合教育研究拠点の村上道夫特任教授(常勤)らの研究チームは、新たに開発した下水中新型コロナウイルスの高感度検出技術と数理モデルを組み合わせた、下水疫学に基づく新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染者数予測手法を確立しました。

一般に、感染者は発症の前に下水へのウイルス排出を開始すると考えられるため、下水中のウイルス濃度データは新規報告感染者数の先行指標になると期待されています。北島准教授らは、塩野義製薬株式会社と共同で、普及に適した下水中ウイルス高感度検出手法であるEPISENS-S法(関連するプレスリリリース③)を開発し実用化しています。この度、研究チームは同法の改良版であるEPISENS-M法を開発し、より安定的かつ高感度なウイルス検出を可能にしました。一方、感染者数の予測については、感染者からのウイルス排出メカニズムを考慮した独自の数理モデル(PRESENSモデル)を構築しました。札幌市で2年以上に渡りEPISENS-M法で流入下水中のウイルス濃度を測定し、モデルによる下水データからの感染者数予測精度を検証したところ、採水日から5日後までの新規報告感染者数を高い精度で予測できることが実証されました。

また、感染者全数把握の見直しで感染流行動向の全体像把握が困難な昨今、流入下水中には集水域内全ての感染者から排出されたウイルスが含まれるため、下水疫学の有用性が更に高まっています。そこで研究チームは、下水中ウイルス濃度データのみから5日後までの新規報告感染者数を高い精度で予測可能なモデルを構築しました。EPISENS-M法とPRESENSモデルを組み合わせた一連の下水疫学的手法は、特に感染者の定点把握移行後の感染動向予測手法として社会的活用が期待されます。

なお、本研究成果は、2023年1月7日(土)公開のEnvironment International誌にオンライン掲載されました。

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EPISENS-M法とPRESENSモデルの開発概要

研究の背景

COVID-19感染者は発症の前に下水へのウイルス排出を開始するため、下水中ウイルスは新規報告感染者数の先行指標になることが期待されています。加えて、下水中には集水域内のあらゆる感染者から排出されたウイルスが含まれることから、特に感染者数の全数把握から定点把握への移行後は、下水疫学に基づく感染動向の把握及び予測の重要性がさらに増すと考えられます。下水中ウイルス濃度から感染者数を予測するにあたり、変異株やワクチン接種率、検査報告体制などの様々な要因により下水中ウイルス濃度と感染者数との関係性が変化する中で、数理モデルによる予測結果をより確実なものにするためには、長期に渡るデータを用いて予測モデルを構築・評価することが必要不可欠です。

長期に渡る下水中ウイルス濃度の動向を高い精度で把握するには、低流行期でも下水からウイルスRNAを高感度で検出可能な手法が求められます。研究チームでは、下水中ウイルスの高感度検出法であるEPISENS-S法を開発しましたが(関連するプレスリリリース③)、この方法は下水中の固形物量が少ない場合(雨水で下水が希釈された場合など)には検出率が低くなってしまうことが課題でした。一方、陰電荷膜で下水を濾過することで新型コロナウイルスを効率よく捕捉できることが分かっていたため(関連するプレスリリース②)、本研究ではEPISENS-S法の遠心による固形物回収工程を陰電荷膜による濾過に置き換え、改良版の高感度検出手法である「EPISENS-M法」の開発に取り組みました。

研究手法・成果

EPISENS-M法は、陰電荷膜による下水の濾過、膜からのRNA抽出、逆転写・前増幅(10サイクルのPCR)及び定量PCRからなり、EPISENS-S法よりも更に安定的かつ高感度に下水中ウイルスRNAを検出することが可能です。本手法は、下水中の糞便濃度の指標として広く用いられるトウガラシ微斑ウイルス(PMMoV)RNAも併せて定量可能で、下水中の固形物画分だけでなく水画分に含まれるウイルスも効率良く回収・検出できることが確認されました。

EPISENS-M法を用いて、2020年5月28日から2022年6月16日にかけて札幌市の2箇所の下水処理場で採取した流入下水を対象にウイルス定量を調査した結果(図1)、下水中ウイルス濃度と新規報告感染者数との間に高い相関関係を認めました(図2)。ロジスティック回帰分析を用いてEPISENS-M法の感染者数ベースの検出感度を評価したところ、人口10万人あたり新規報告感染者0.69人/日の流行レベルで下水から新型コロナウイルスRNAを50%の確率で検出できることが判明しました(図3)。これは、EPISENS-M法が現時点で世界最高レベルの検出感度を誇ることを示すデータと言えます。

一方、感染者数の予測にあたっては、感染者からのウイルス排出メカニズムを考慮した独自の数理モデル(PRESENSモデル)を構築し、EPISENS-M法により測定した、上記の下水中ウイルス濃度の長期的データを用いて感染者数予測精度を検証したところ、採水日から5日後までの新規報告感染者数を高い精度で予測可能であることが実証されました(図4)。更に、感染者の全数把握の取り止めを想定し、直近の報告感染者数データに依存せずに、下水中ウイルス濃度データのみから5日後までの新規報告感染者数を高い精度で予測可能なモデルを構築しました(図4)。

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図1. EPISENS-M法により測定した下水中ウイルスRNA濃度とCOVID-19新規報告感染者数の推移

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図2. 下水中新型コロナウイルスRNA濃度とCOVID-19新規報告感染者数の相関

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図3. ロジスティック回帰分析によるEPISENS-M法の感染者数ベースの検出感度の評価

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図4. PRESENSモデルによる下水中新型コロナウイルス濃度からの報告感染者数推定値と実際の報告値

今後への期待

昨今、ワクチン接種率の向上や比較的病原性の低い変異株(オミクロン株)の台頭などの要因により不顕性感染者や軽症者の割合が増えている可能性に加えて、感染者の全数把握から定点把握への移行により、臨床検査からは感染流行動向の全体像の把握が難しくなりつつあります。下水中には症状や検査・報告体制によらず、あらゆる感染者から排出されたウイルスが含まれるため、下水疫学調査は見えない感染を「見える化」する手法として社会的に大きな注目と期待を集めています。

本研究で開発したEPISENS-M法は、下水中ウイルスを安定して高感度に検出可能であるため、より精度の高い下水疫学情報の提供に繋がります。一方のPRESENSモデルは、下水中ウイルス濃度を市民にとってより分かりやすい情報である感染者数に変換した上で、その動向の予測を可能にするものです。本研究で確立したEPISENS-M法とPRESENSモデルの組み合わせによる一連の感染者数予測手法は、特に感染者の定点把握移行後における感染動向の予測ツールとして、社会的活用が期待されます。

特記事項

論文情報

論文名  Wastewater-based prediction of COVID-19 cases using a highly sensitive SARS-CoV-2 RNA detection method combined with mathematical modeling(高感度SARS-CoV-2 RNA検出法と数理モデルの組み合わせによる下水からのCOVID-19感染者数予測)
著者名  Hiroki Ando1,Michio Murakami2,Warish Ahmed3,Ryo Iwamoto4,5,Satoshi Okabe6,Masaaki Kitajima6
1北海道大学大学院工学院,2大阪大学感染症総合教育研拠点,3オーストラリア・CSIRO,4塩野義製薬株式会社,5株式会社AdvanSentinel,6北海道大学大学院工学研究院)
雑誌名 Environment International(公衆・環境衛生学の専門誌)
DOI 10.1016/j.envint.2023.107743
公表日 2023年1月7日(土)(オンライン公開)

本研究の一部は、国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)未来社会創造事業本格研究(JPMJMI22D1、研究代表:田中宏明)並びに塩野義製薬株式会社・株式会社AdvanSentinelからの共同研究費の支援を受けて実施されたものです。

関連するプレスリリース

①北海道大学・山梨大学共同プレスリリース「下水中の新型コロナウイルスに関する世界初の総説論文を発表~COVID-19の流行状況を把握する上での下水疫学調査の有用性を提唱~」 発表日:2020年5月14日 URL:https://www.hokudai.ac.jp/news/2020/05/-covid-19.html

②北海道大学・山梨大学共同プレスリリース「下水中のコロナウイルス濃縮回収率を手法ごとに評価~COVID-19の下水疫学調査を実施する上での標準的手法確立に期待」 発表日:2020年7月10日 URL:https://www.hokudai.ac.jp/news/2020/07/covid-19-2.html

③北海道大学・塩野義製薬共同プレスリリース「普及に適した下水中新型コロナウイルスの高感度検出技術(EPISENS-S法)を開発」 発表日:2022年8月8日 URL:https://www.hokudai.ac.jp/news/2022/08/episens-s.html

④北海道大学・大阪大学・東京大学共同プレスリリース「東京2020オリンピック・パラリンピック選手村の下水中新型コロナウイルス量と陽性者数との関連を解明~下水疫学調査と個人検査は相互補完的、集団を対象とした検査戦略としての普及に期待~」 発表日:2022年8月23日 URL:https://www.hokudai.ac.jp/news/2022/08/2020-3.html

用語説明

下水疫学

下水中のウイルス等の測定に基づき集団レベルの疫学情報を分析する学問分野を意味する「Wastewater-based epidemiology」の訳語であり、【関連するプレスリリース①】(2022年5月14日発表)の際に北島准教授と山梨大学の原本英司教授が考案。現在では、当該分野を指す用語として広く普及している。

感染者数予測

本研究で用いている「予測」とは、感染後にウイルスの排出を開始しているがまだ感染者としては報告されていない感染者の報告数を事前推定することを意味する。まだ起こっていない将来の感染の「予測」ではないことに注意。

EPISENS-M法

北島准教授が考案した手法名(Efficient and Practical virus Identification System with ENhanced Sensitivity for Membrane)の略称であり、EPISENS-S法(旧・仮称:北大・塩野義法、関連するプレスリリース③参照)を改良した下水中ウイルス高感度検出技術。なお、「EPISENSTM(北海道大学の登録商標)」には「疫学(epidemiology)情報を高感度(sensitive)に検知(sensing)する手法」という意味が込められている。

PRESENSモデル

本研究で開発した、下水からの感染者数予測モデルの総称として北島准教授と村上特任教授(常勤)が考案したモデル名(PRedictive Estimation of cases with Sewage-based ENhanced Surveillance)の略称。なお、「PRESENS」には「事前(pre-)に検知(sensing)するモデル」という意味が込められている。

流入下水

下水処理場で処理される前の下水のこと。

定量PCR

ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)を用いて、サンプルの中にある特定配列のDNA量を調べる方法。リアルタイムPCR装置を用いてPCR産物量に応じた蛍光強度を測定することで、鋳型DNAの量を知ることができる。リアルタイムPCRやqPCR(quantitative PCR)とも呼ばれる。

ロジスティック回帰分析

目的(被説明)変数が0と1からなる2値のデータについて説明変数を使った式で表す方法のことで、説明変数を用いてある事象が起こる確率を推定することができる。本研究の場合、下水からのウイルス検出と非検出という事象について目的変数をそれぞれ1と0と設定し、10万人あたりの新規報告感染者数を説明変数とすることで、ある感染者数レベルにおける下水からのウイルス検出確率を推定する式を導いた。