東京2020オリンピック・パラリンピック選手村の 下水中新型コロナウイルス量と陽性者数との関連を解明
下水疫学調査と個人検査は相互補完的、集団を対象とした検査戦略としての普及に期待
研究成果のポイント
- 選手村の下水検体中の新型コロナウイルスRNA量を高感度検出技術(EPISENSTM法)により測定。
- 下水中ウイルス量が陽性者数との相関および陽性者発見の2日前に検出されることを確認。
- 下水疫学調査と個人検査を組み合わせた検査戦略がクラスター防止に貢献したことを示唆。
概要
北海道大学大学院工学研究院の北島正章准教授、大阪大学感染症総合教育研究拠点の村上道夫特任教授(常勤)、東京大学大学院工学系研究科の片山浩之教授及び同大学医科学研究所の井元清哉教授らの研究グループは、塩野義製薬株式会社と共同で、2021年に開催された第32回オリンピック競技大会(2020/東京)及び東京2020パラリンピック競技大会(以下、東京2020大会)の選手村において新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の下水疫学調査を実施し(関連するプレスリリース②)、下水中の新型コロナウイルスRNA量と陽性確定者数との相関を解析した結果を報告しました。
研究グループは、東京2020大会開催期間を含む2021年7月14日から9月8日にかけて、選手村より下水検体を採取し、北海道大学と塩野義製薬が共同開発した高感度検出技術であるEPISENSTM法(旧・仮称:北大・塩野義法)(関連するプレスリリース③)を使用して、下水検体中の新型コロナウイルスRNA量を測定しました。下水検体中の新型コロナウイルスRNA量は陽性者の存在と統計的に有意な正の相関が認められ、さらに下水中ウイルスRNA量の増加は個人検査による陽性者の発見に2日間先行していたことが示唆されました。
選手村での下水疫学調査結果は、他の感染モニタリング指標(陽性者数や市中感染の状況等)と併せて総合的に勘案されることで、パラリンピック期間中に更なる感染防止対策を実施するなどの判断材料の一部として活用されました。下水疫学調査と個人検査は相互補完的なものであり、この検査戦略が選手村内におけるクラスター発生の防止にあたり重要な役割を果たしたと考えられます。本研究の成果は、毎日全員が個人検査を受ける集団に対する下水疫学調査の有用性を示すものであり、ウィズコロナ社会の大規模集合イベントにおける感染対策の一環として下水疫学調査の活用が期待されます。
なお、本研究成果は、日本時間2022年8月23日(火)公開のJAMA Network Open誌(オンライン版・オープンアクセス)に掲載されました。
研究の背景
2021年夏に開催された東京2020大会では、新型コロナウイルスの感染拡大が大きな懸念であったため、選手やスタッフらに義務付けられた毎日の唾液抗原定量検査および濃厚接触者に対するPCR検査に加えて、本研究チームにより選手村での下水疫学調査が実施されました。本研究では、選手村における下水検体中の新型コロナウイルス量と陽性確定者数および濃厚接触者検査数との関連について定量的に解析しました。
研究手法・成果
研究チームは、2021年7月14日から9月8日にかけてパッシブサンプリングにより360検体の下水サンプルを選手村内のマンホールから採取しました。選手村内の全ての居住棟をカバーする7つのエリアそれぞれから、臨床検査データ(陽性確定者数および濃厚接触者検査数)に加えて下水検体を取得しました。採取した下水は、北海道大学と塩野義製薬が開発した高感度検出技術であるEPISENSTM法を使用して分析し、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2) RNAの検出及び定量を試みました。
具体的には、下水検体からキットを用いてRNAを抽出し、1ステップ逆転写・前増幅工程に続いて定量PCRを実施しました。研究チームは、原則として各サンプリング日の翌日までに下水中のウイルス量の分析結果を公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会に報告しました。
調査の結果、分析対象とした下水サンプル360検体のうちの41.9%にあたる151検体からSARS-CoV-2 RNAが検出され(図1)、下水からのSARS-CoV-2 RNAの検出率はオリンピック期間中(26.4%:53検体)よりもパラリンピック期間中(61.6%:98検体)の方が統計学的に有意に高いことが分かりました。選手村の滞在者数はオリンピックでは約11,000人、パラリンピックでは約4,400人であったとされていますが、下水からのSARS-CoV-2 RNAの検出結果は、滞在者1,000人あたりの陽性確定者数(オリ:3.2人、パラ:3.6人)および濃厚接触者検査数(オリ:140件、パラ:440件)のいずれもオリンピック期間中よりもパラリンピック期間中の方が多かったことと合致する結果です。
下水検体から検出されたSARS-CoV-2 RNA量は、サンプラー当たり最大3.5×104遺伝子コピーでした。下水検体中ウイルス量と対応するエリアにおける陽性者の有無の相関を解析したところ、陽性確定日を基準として同日から2日前までの3日間の最大量との間に統計的に最も高い相関が確認されました(図2)。また、下水検体中のSARS-CoV-2 RNA量は対応するエリアにおける陽性者の存在と統計的に有意な正の相関を示しました(図3)。これらの結果は、下水中のSARS-CoV-2 RNA量の増加が個人検査による陽性者の発見に2日間先行していたことを示すものです。
図1. 選手村における日毎の下水陽性エリア数、陽性確定者数、濃厚接触者検査数
図2. 下水中ウイルスRNA量と感染者の存在の相関の効果量
図3. 個人検査陽性および陰性のエリアにおける下水中ウイルス量の分布
今後への期待
下水疫学調査は、匿名性を保ちながら早期にウイルス保有者の存在を検知し、不顕性感染者や軽症者も含めた集団レベルでのCOVID-19感染状況を効率よく把握するツールとして活用が期待されています。下水疫学データは、組織委員会が選手村のウイルス排出状況を網羅的に把握するための情報として、さらには他の感染モニタリング指標(陽性者数や市中感染の状況等)と併せて総合的に勘案されることでCOVID-19対策の検討材料の一部として活用されました。結果として、パラリンピック期間中、アスリートと定期的に接触する選手村内スタッフは原則毎日検査とするなど検査頻度を高め、更なる感染防止対策を実施するという判断に繋がりました。
このように下水疫学調査と個人検査は相互補完的なものであり、この検査戦略が選手村内におけるクラスター発生の防止にあたり重要な役割を果たしたと考えられます。
有志研究グループMARCOについて
井元教授が代表を務め、北島准教授や村上特任教授(常勤)も参画する有志研究グループMARCO (MAss gathering Risk COntrol and COmmunication)は、大規模集合イベントにおけるCOVID-19をはじめとした感染症のリスク管理に関する研究と社会実装に取り組んでいます。
世界最大規模の集合イベントであるオリンピック・パラリンピックを対象とした本研究の成果は、毎日全員が個人検査を受ける集団に対する下水疫学調査の有用性を示すものであり、ウィズコロナ社会の大規模集合イベントにおける感染対策の一環として下水疫学調査の活用が期待されます。
MARCOについての詳細はこちら:https://staff.aist.go.jp/t.yasutaka/MARCO/index.html
関連するプレスリリース
①北海道大学・山梨大学共同プレスリリース「下水中の新型コロナウイルスに関する世界初の総説
論文を発表~COVID-19の流行状況を把握する上での下水疫学調査の有用性を提唱~」
発表日:2020年5月14日
URL:https://www.hokudai.ac.jp/news/2020/05/-covid-19.html
②北海道大学・大阪大学・塩野義製薬・東京大学共同プレスリリース「東京2020オリンピック・パラリンピック選手村でCOVID-19の下水疫学調査を実施」
発表日:2022年2月4日
URL:https://www.hokudai.ac.jp/news/2022/02/2020covid-19pdf.html
③北海道大学・塩野義製薬共同プレスリリース「普及に適した下水中新型コロナウイルスの高感度検出技術(EPISENS-S法)を開発」
発表日:2022年8月8日
URL:https://www.hokudai.ac.jp/news/2022/08/episens-s.html
論文情報
論文名 Association of SARS-CoV-2 load in wastewater with reported COVID-19 cases in the Tokyo 2020 Olympic and Paralympic Village from July to September 2021(東京2020オリンピック・パラリンピック選手村(2021年7月から9月)における下水中の新型コロナウイルス量とCOVID-19陽性者数の関連)
著者名 Masaaki Kitajima1,Michio Murakami2,Syun-suke Kadoya3,Hiroki Ando1,Tomohiro Kuroita4,Hiroyuki Katayama3,Seiya Imoto5(1北海道大学大学院工学研究院/工学院,2大阪大学感染症総合教育研究拠点,3東京大学大学院工学系研究科,4塩野義製薬株式会社,5東京大学医科学研究所)
雑誌名 JAMA Network Open(医学の専門誌)
DOI 10.1001/jamanetworkopen.2022.26822
公表日 日本時間2022年8月23日(火)午前0時(米国東部標準時間2022年8月22日(月)午前11時)(オンライン公開・オープンアクセス)
用語説明
- 下水疫学調査
「下水疫学」は学問分野である「Wastewater-based epidemiology」の訳語であり、北島准教授と山梨大学の原本教授の研究グループが考案。「調査」を付けることで、調査する行為そのものを意味する。
- EPISENSTM法
「北大・塩野義法(仮称)」の正式名称として北島准教授が考案した手法名(Efficient and Practical virus Identification System with ENhanced Sensitivity)の略称であり、「EPISENS」には「疫学(epidemiology)情報を高感度(sensitive)に検知(sensing)する」という意味が込められている。
- 抗原定量検査
専用の測定機器を用いることにより、抗原検出用簡易キット(抗原定性検査)よりも感度が高く、抗原の定量的な測定が可能な検査法。
- 定量PCR
ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)を用いて、サンプルの中にある特定配列のDNA量を調べる方法。リアルタイムPCR装置を用いてPCR産物量に応じた蛍光強度を測定することで、鋳型DNAの量を知ることができる。リアルタイムPCRやqPCR(quantitative PCR)とも呼ばれる。