イオン周りの水分子は水素結合を素早く組み替えていた
水和物結晶中の水分子の運動を中性子で観測
研究成果のポイント
- 水和物を構成する水分子が水素結合を素早く組み替える運動を、中性子により観測した
- 固体結晶中でも、水溶液中のように、イオンが水分子の運動に影響することを明らかにした
- 水分子を用いた電池材料や蓄熱材料の開発に対して新たな設計指針となることが期待される
概要
大阪大学 大学院基礎工学研究科の嶋田 仁さん(博士後期課程3年、日本学術振興会特別研究員)、菅原 武助教、平井 隆之教授、神戸大学 大学院人間発達環境学研究科の谷 篤史准教授、総合科学研究機構(CROSS)中性子科学センターの山田 武博士、京都大学 複合原子力科学研究所の奥地 拓生教授の研究グループは、固体結晶内部において、イオン近傍の水分子が、周囲の水分子との間に働く結合(水素結合)を組み替え、別の水分子と水素結合を素早く形成していることを明らかにしました(図1)。これまで、水溶液におけるイオンの周囲の水分子は、イオンと相互作用することで、その運動性が束縛されたり、促進されたりすることが知られていました。しかし、固体結晶中でも同様の現象が生じるかどうかはこれまで解明されていませんでした。
今回、嶋田さん、菅原助教らの研究グループは、セミクラスレートハイドレート(図2)と呼ばれる、水分子とイオンからできる固体結晶中の水分子の運動を、大強度陽子加速器施設(J-PARC)の物質・生命科学実験施設(MLF)に設置されているダイナミクス解析装置(BL02, DNA)を用いて調べました。その結果、イオンの周囲に存在する水分子は、周囲にイオンが存在しない水分子に比べて、十万倍程度速く水素結合を組み替え、別の水分子と水素結合していることを見出しました。この結果は、水分子を使った新たな材料設計(例えば電池材料や蓄熱材料)の開発に繋がるだけでなく、水分子が持つ興味深い現象の理解に繋がると考えられます。
本研究成果は、米国物理学協会の科学誌「Applied Physics Letters」に、2023年7月26日(水)午後5時(日本時間)に公開されました。
図1. 臭化物イオン周りの水が素早く水素結合を組み替えて別の水分子と水素結合を形成する様子。
図2. セミクラスレートハイドレートの分子モデル。黒い丸と線が水分子中の酸素原子と水素結合を表す。カゴの内部に入っているのが、陽イオンで、水分子とともにカゴ構造を形成しているのが陰イオン(臭化物イオン)。
研究の背景
最もよく知られた分子の一つである水分子は、近くの水分子と水素結合を形成し、水溶液や固体内で複雑な構造をとることが可能です。今回実験で使用したクラスレートハイドレートは、水分子同士が水素結合によりカゴのような構造を形成しています。カゴの内部には様々な物質を取り込むことが可能であり、メタンが取り込まれると、新たな天然ガス資源として期待されている有名なメタンハイドレートになります。これまで菅原助教らの研究グループは、カゴの内部とカゴの一部にイオンが存在する「セミクラスレートハイドレート(図2)」と呼ばれる物質を利用し、蓄熱材の開発を進めてきました。また、セミクラスレートハイドレートが氷やメタンハイドレートよりも高い電気伝導性を持つことに着目し、その伝導メカニズム解明も進めてきました。このような物質では、水素イオンが水分子間をジャンプすることで伝導し、電気伝導性を与えています。そのため、水分子の運動を理解することは、新たな電気伝導性物質の開発に繋がると期待されています。
研究の内容
水溶液中で、イオンは、その種類によって、イオン近傍にある水分子間の水素結合の組み替えを促進する性質や、反対に抑制する性質があることが知られていました。しかし、水分子からできた固体の内部で、イオンと水分子がどのように相互作用するのか、明らかではありませんでした。今回、水分子の運動を調べるため、世界最高クラスの強度を誇る大強度陽子加速器施設(J-PARC、 図3)の中性子線を利用し、臭化テトラブチルアンモニウム(TBAB)セミクラスレートハイドレート中のイオン近傍の水分子の運動を測定しました。
実験で得られた結果を図4に示します。赤い領域の周囲に広がる明るい水色の領域が、水分子の運動を反映しています。左図は分子がほぼ静止している極低温-265℃(8 K)で得られた結果であり、右図は水分子が活発に運動する-1℃(272 K)で得られた結果です。比較すると、右図では、より明るい水色の領域が上下方向に広がっていることが確認できます。詳細に解析を進めた結果、臭化物イオン近傍の水分子は、臭化物イオンから遠い水分子に比べて十万倍速い速度で水素結合を組み替え、異なる水分子と水素結合を形成していることを明らかにしました(図1)。
図3. 大強度陽子加速器施設(J-PARC)の物質・生命科学実験施設(MLF)に設置されているダイナミクス解析装置(BL02 , DNA)。
図4. TBABセミクラスレートハイドレートの水分子の中性子準弾性散乱の変化。左図は極低温-265℃、右図は-1℃での測定結果。赤い領域の周囲に広がる比較的明るい領域が水分子の運動を反映している。
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
本研究成果は、水分子を利用した電池材料・センサーなどの開発に対して、新たな設計指針を提供するものです。イオン周囲の水分子の運動性が大きく変化することから、今後、水素イオンの移動を促進する(電気伝導度を高くする)イオンの探索が求められます。また、セミクラスレートハイドレートは蓄熱材料としても利用されており、今回の知見を活かした材料設計が期待されます。
特記事項
本研究成果は、2023年7月26日(水)午後5時(日本時間)に米国物理学協会の科学誌「Applied Physics Letters」(オンライン)に掲載されました。
タイトル:“Quasi-elastic neutron scattering studies on fast dynamics of water molecules in tetra-n-butylammonium bromide semiclathrate hydrate”
著者名:Jin Shimada, Atsushi Tani, Takeshi Yamada, Takeshi Sugahara, Takayuki Hirai, and Takuo Okuchi
DOI:https://doi.org/10.1063/5.0157560
なお、本研究は、日本学術振興会科学研究費助成事業(JP21J20788, JP22KJ2069, JP17H06456, JP22K05050, JP21H04519)の一環として行われました。また、中性子測定は、大強度陽子加速器施設(J-PARC)の物質・生命科学実験施設(MLF)に設置されているダイナミクス解析装置(BL02 , DNA)を用いて行われました(課題No. 2021B0086)。
SDGsの目標
用語説明
- 水素結合
水分子では、水素原子と酸素原子間に働く電気的な偏りによって、水素原子は正に、酸素原子は負にそれぞれ弱く帯電している。正に帯電した水素原子は、隣にある別の水分子の酸素原子と引き合い、水分子間に水素結合が生まれる。一般的な共有結合よりも結合の強さが弱く、比較的小さなエネルギーで切断することができる。
- セミクラスレートハイドレート
メタンハイドレートに代表されるクラスレートハイドレートは、水分子が水素結合によって作るカゴ構造の内部に分子やイオンが取り込まれてできる結晶。その中で、カゴの中に入った分子やイオンが、カゴ構造の一部を担うものをセミクラスレートハイドレートと呼ぶ。
- 大強度陽子加速器施設(J-PARC)
高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が茨城県東海村で共同運営している大型研究施設で、素粒子物理学、原子核物理学、物性物理学、化学、材料科学、生物学などの学術的な研究から産業分野への応用研究まで、広範囲の分野での世界最先端の研究が行われています。J-PARC内の物質・生命科学実験施設では、世界最高強度のミュオン及び中性子ビームを用いた研究が行われており、世界中から研究者が集まっています。(https://j-parc.jp/c/)。