
\原子を「素手」で操作するメタバース実験室/ バーチャル・リアリティ×走査型プローブ顕微鏡による 混合現実(MR)実験システムを開発
研究成果のポイント
図1. バーチャル・リアリティ×走査型プローブ顕微鏡メタバース実験室のフレームワーク。出典:Diao, Z., Yamashita, H. & Abe, M. (2025). A metaverse laboratory setup for interactive atom visualization and manipulation with scanning probe microscopy. Scientific Reports, 15, 17490. https://doi.org/10.1038/s41598-025-01578-y. Licensed under CC BY 4.0.
概要
大阪大学大学院基礎工学研究科システム創成専攻 DIAO ZHUO(刁琢)助教、附属極限科学センター 阿部真之教授らの研究グループは、バーチャル空間と実験室の現実空間をスムーズに行き来できる混合現実(Mixed Reality; MR)実験システムを開発し、目の前に5千万倍率で投影したシリコン原子を、直感的に観察したり動かしたりすることを可能にしました(図1)。
この新しい実験システムでは、研究者が特殊なヘッドセットを装着することで、実験室の現実世界と仮想空間をシームレスに行き来できます。最大の特徴は、手のジェスチャーだけで原子を「見て」「触って」「動かす」ことができる点です。従来は複雑な操作が必要だった原子操作が、まるで物をつかむような直感的な動作で行えるようになりました。研究チームは実際にこのシステムを使って、シリコン表面から原子一つを取り出すことに成功しました。さらに、このシステムはメタバース技術を活用しているため、世界中の研究者が離れた場所からでも同じ実験に参加できます。原子レベルの精密な研究をより身近で直感的なものに変える、科学実験の新しい形を提案しています。
本研究成果は、5月20日(火曜日)英国科学誌「Scientific Reports」のオンライン版で公開されま
した。
研究の背景
走査型プローブ顕微鏡 (SPM)は、ナノスケールから原子レベルまで表面観察が可能な、科学や工学の分野における必須の測定装置です。SPMを用いると、単一の原子や個々のクラスター、局所構造の物性を評価したり(分光測定)、個々の表面原子を動かしたり引き抜いたり(原子操作)することで、他の装置にはない画期的な実験環境を提供してくれます。しかしながら、分光測定や原子操作実験では、高度な技術と精密な制御が必要であり、極めて微小なスケールでの操作が要求されることや、環境からの振動や熱的揺らぎの影響を受けやすいため、限られた環境(例えば極低温や超高真空)においての研究が一般的でした。さらに、高度な実験技術を必要とするため、だれもが実験を行える状況ではありませんでした。
本研究グループではこれまで、高度DX化したSPM装置を構築し、これをベースにAIによる自律的なSPM実験(https://doi.org/10.1002/smtd.202400813)や、大規模言語モデルによるSPM実験(https://doi.org/10.1088/1361-6501/adbf3a)といった、新しい実験システムについて発表してきました。
研究の内容
本研究グループではバーチャル・リアリティの技術とSPMとを統合する革新的システムを開発しました。このシステムの最大の特徴は、バーチャル空間と実験室の現実空間をスムーズに行き来できる混合現実(MR)にあります。研究者はヘッドセットを装着するだけで、原子を見たり動かしたりする作業を直感的に行うことが可能になりました。特筆すべきは、高度のSPM装置DX化により, 複雑かつ繊細な装置操作が自動化されるようになり, 研究者自身の手の動きだけで原子操作ができる点です。まるで目の前の物体をつかむかのような自然な感覚で、ナノメートルスケールの極小世界を扱うことを実現しました。
実際に本研究グループでは、このシステムを使って室温環境下でシリコン表面から原子一つを狙って取り出すことに成功し、高度な原子操作の実用化への道を開きました。従来の方法では困難だった繊細な原子操作が、より直感的かつ効率的に行えるようになっています。
さらに、このシステムは「メタバース実験室」としての機能も備えており、世界中の研究者が離れた場所からでも同じ実験に参加することを可能にしました。これにより、原子レベルの精密な研究において、国境や距離の壁を越えた新しい共同研究の形が実現しました。この技術は、ナノテクノロジー研究の進展を加速させるとともに、科学教育の新たな可能性も広げています。
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
MRを計測・操作系に取り込む流れは、ナノスケール研究を「遠隔・協働・自律」の三つの軸で加速させる可能性があります。第一に、装置を仮想空間へ双子化(デジタルツイン化)することで、世界中の専門家が同時に参加でき、装置稼働率の向上と分野横断的な知見の交流が期待できます。第二に、MR環境では操作履歴や実験条件を時系列で可視化・共有しやすいため、データ駆動型AI解析と相性が良いと考えます。探針軌道の最適化や異常検知を学習させれば、自律実験系へ自然に接続でき、材料探索や装置チューニングの高速化が可能になります。第三に、視覚・触覚フィードバックを統合した直感的インターフェースは教育効果が高く、熟練者の技能継承を容易にします。新人研究者が早期に高度な操作へ到達すれば、研究コミュニティ全体の競争力が底上げされることが期待できます。総じて、MR統合型計測は「地理的制約の解放」「AIとの協調最適化」「人材育成の効率化」という三位一体の成長エンジンを提供し、ナノ計測・ナノ操作におけるイノベーション創出の加速を牽引すると考えられます。
特記事項
本研究成果は、5月20日(火曜日)英国科学誌「Scientific Reports」(オンライン)で公開されました。
タイトル:“A metaverse laboratory setup for interactive atom visualization and manipulation with scanning probe microscopy”
著者名:Zhuo Diao, Hayato Yamashita, Masayuki Abe
DOI: https://doi.org/10.1038/s41598-025-01578-y
説明動画:https://www.youtube.com/watch?v=fzmzXuzAWhQ
参考URL
SDGsの目標
用語説明
- 特殊なヘッドセット
ヘッドマウントディスプレイ(HMD)のこと。ヘッドマウントディスプレイは、現実世界と仮想空間を融 合させるための主要なデバイスです。頭部に装着することで、ユーザーの視界に仮想の映像や情報を重ねて表示し、現実空間と一体化した体験を提供します。代表的な機種にはMeta3やMicrosoft HoloLens、Magic Leapなどがあり、これらは空間認識カメラ、深度センサー、マイク、スピーカーなどを内蔵し、ユーザーの位置や動作、視線をリアルタイムに検出することができます。また、ハンドジェスチャや音声コマンドによって仮想オブジェクトを操作できるため、マウスやキーボードを使わずに直感的なインタラクションが可能です。これにより、設計、医療、教育、研究など多様な分野での活用が進んでいます。今後はさらなる軽量化や視野角の拡大、AIとの連携によって、より自然で没入感のある体験が期待されます。
- 混合現実
混合現実(MR)は、現実空間と仮想空間を重ね合わせ、ユーザーが両方を同時に知覚・操作できる環境を提供します。ヘッドマウントディスプレイと深度センサーが周囲を計測し、机や壁にホログラムを正確に固定します。これにより設計レビュー、医療トレーニング、遠隔協働などで立体的な可視化と直感的な操作が可能になります。クラウド経由で複数人が同一モデルを共有・編集でき、AIが状況に応じたガイダンスを提示するといったことも可能であり、学習効率と安全性が向上します。将来的には自律ロボットとの協調やスマートシティ管理へ応用範囲が広がると期待されます。
- 走査型プローブ顕微鏡 (SPM)
先鋭な針(探針)を試料表面に近づけ、相互作用を検出しながら走査することで、原子レベルの分解能で表面構造を観察する装置です。トンネル電流や原子間力を利用し、半導体や生体分子の研究に広く応用されています。非常に高い空間分解能が特徴で、ナノテクノロジーの発展に貢献しています。