室温で信号を700倍増大して創薬NMR手法を実現

室温で信号を700倍増大して創薬NMR手法を実現

量子技術「室温超偏極」で創薬へ大きく前進

2023-7-4工学系
量子情報・量子生命研究センター准教授根来 誠

概要

大阪大学量子情報・量子生命研究センターの根来誠准教授の研究グループは、試料を室温に保ったまま核スピンを揃える量子技術「室温超偏極」を用いてNMR(核磁気共鳴)信号を700倍以上増大し、創薬に用いられるNMR手法のデモンストレーションに成功しました。これにより、量子技術を創薬へと用いる社会実装に向けて大きく前進しました。

本研究成果は、レーザー光とマイクロ波を照射することによって温度に関係なく核スピン(原子核の持つ微小な磁石)の向きを揃える「光励起三重項状態の電子スピンを用いた動的核偏極(DNP)法(略称:トリプレットDNP法)」によるものです。NMR分光の感度は核スピンの向きが揃った割合を示す偏極率に比例します。偏極率は室温では通常10万分の1程度という非常に低い値です。NMR分光は新材料探索や創薬において必要不可欠なツールとして用いられていますが、その感度の低さが適用範囲を大きく制限しています。今回私たちの研究グループは、サリチル酸分子の固体試料中の核スピン偏極率をトリプレットDNPによって室温で高め、その後試料を水溶液で溶かしてから、ヒト血清アルブミンと呼ばれる蛋白質と混ぜNMR信号によりその結合の様子を検出することに成功しました(図1)。この時の溶液状態でのサリチル酸の炭素核スピンの偏極率は0.7%であり、通常のNMR分光の環境(11.7テスラ)に比べて700倍以上強い信号が観測されました。また、サリチル酸よりも強く結合するワルファリンと呼ばれる医薬品有機分子を混ぜると、NMR信号によりワルファリンがサリチル酸を阻害する様子を示す明確なNMR信号の観測にも成功しました。このような蛋白質との結合や、阻害の様子をとらえることは創薬NMR分野で非常に良く用いられる基盤的な手法であり、本成果は「室温超偏極」を創薬へと用いる社会実装に向けて道を拓くものであると考えています。

本成果は、米国東部時間2023年7月4日(火)8時00分(日本時間7/4(火)21:00)に米国化学会のThe Journal of Physical Chemistry Lettersオンライン版で公開され、Editor's Choiceに選ばれました。

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図1

研究の背景

核スピン(原子核の持つ微小な磁石)から発せられる電磁波信号を解析することで、試料内部の原子レベルの構造情報を知ることができます。これは、化学分析の分野ではNMR(核磁気共鳴)分光として、医療の分野ではMRI(核磁気共鳴画像)として広く利用されています。核スピンの磁気エネルギーは非常に小さいため室温では熱擾乱に負けて向きがほとんどバラバラになっており、発生する信号はほとんどが打ち消しあって、非常に弱くなっています。スピンの向きが揃った割合は偏極率と呼ばれ、発生する信号の強度はこれに比例し、NMRやMRIの感度もこれに比例します。NMR分光が通常行われる室温下で11.7テスラの磁場中では、炭素核(13C)スピンの熱平衡状態の偏極率は約0.001%という非常に小さな値です。

マイクロ波を照射することによって、熱平衡状態の偏極率が炭素核スピンよりも1,000倍以上高い電子スピン(電子のもつ微小な磁石)と同程度に核スピン偏極率を増大できる動的核偏極(DNP: Dynamic Nuclear Polarization)と呼ばれる方法が注目を集めており、世界中で研究が進められています。DNPでスピンが揃った「超偏極」状態によってNMR分光信号の強度を増大させることができることから、創薬NMR手法への適用が研究されています。また、高偏極化された物質を水に溶かして体内に注射する溶解DNP法や、その物質の代謝のMRI観測によるがん治療の迅速効果判定などの応用も考えられ、臨床研究が進められています。しかし、熱平衡状態の電子スピンを用いる従来のDNP法で高い偏極率を得るためには、マイナス270℃以下の極低温下でいったん電子スピンの向きを揃えてからDNPを行う必要があり、装置やその運転に多額の費用がかかっていました。

根来らは核スピンを用いる量子コンピュータ初期化のための研究プロジェクトにおいて、2014年、レーザー光とマイクロ波を照射することで温度に関係なく核スピン偏極率を増大できる「光励起三重項(トリプレット)状態の電子スピンを用いたDNP法(略称:トリプレットDNP法)」を用いて、試料を室温に保ったまま固体状態のNMR信号の強度を飛躍的に増大させることに成功しました。室温のままでスピンの向きを高いレベルまで揃えることを「室温超偏極 (room temperature hyperpolarization)」と名付けました(*)。2018年には試料を室温に保ったまま水溶液に溶かす「溶解DNP」の実現にも成功し、溶液状態のNMR信号の強度も増大させることに成功しました。また本年5月に、共晶トリプレットDNP法(後述)を用いて生体分子の室温超偏極にも成功し、論文がThe Journal of Physical Chemistry Letters誌に掲載されたばかりでした。

(*) 大阪大学プレスリリース(2014年5月13日)「世界初、室温でNMR信号を1万倍以上に増大」
https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/research/2014/20140513_1

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図2. 極低温を用いるDNPとレーザーを用いて室温で行うトリプレットDNP

本研究の成果

今回、同大学量子情報・量子生命研究センターの根来誠准教授(同大学ヒューマンメタバース疾患研究拠点、ならびに量子科学技術研究開発機構量子生命科学研究所を兼任)、同大学基礎工学研究科の宮西孝一郎助教(基礎工学研究科システム創成専攻)、同大学蛋白質研究所の杉木俊彦特任助教(常勤)(現在は北里大学薬学部准教授)、愛知工業大学工学部の森田靖教授らの研究グループは、光励起三重項(トリプレット)状態の電子スピンを用いたDNP法(略称:トリプレットDNP法)によって、サリチル酸の溶液NMR信号を700倍に高感度化することに成功しました(図3)。さらに創薬NMR手法に応用しました。

ペンタセンなどの有機化合物では、光を照射したときに、量子力学的過程によって電子スピンの向きが温度に関係なく非常に偏った励起三重項状態が現れます。このような分子を試料に少量添加してレーザー光照射後にマイクロ波を照射してDNPを行えば、温度に関係なく核スピン偏極率を増大させることができます。今回、図4に示す装置を開発して、ペンタセンを0.03モル%添加した安息香酸のドメイン(相)とサリチル酸のドメインを持つ共晶状態の試料において、まず室温でトリプレットDNPを用いて試料全体の水素核スピンの偏極率を向上させます。ここではNMR活性な炭素である13C核を位置選択的に置換したサリチル酸分子を合成したものを用いております。次に、水素核スピンと13C核スピンの両方に共鳴する電磁波を与えることで偏極状態を交換する交差偏極現象を引き起こし、3C核スピンの向きを揃えます。ここまでは0.4テスラの低磁場中で行い、その後この試料を高分解能NMR分光のための超伝導磁石の中心に移動させます。そこで、温めた水溶液を試験管に注入し、試料を溶かします。高偏極化された試料が溶けた後に、高分解能溶液NMR信号を測定して得られた信号が図1です。また本装置では、蛋白質や競合する薬剤を溶かした水溶液をさらに追加で注入できるようになっており、図1や図5に示すようにヒト血清アルブミンと呼ばれる蛋白質と混ぜた後で測定したNMR信号と比較することで結合の様子を明確に検出することに成功しました。高偏極化された分子は蛋白質と結合すると、スピン緩和時間や電子環境が変化することで、NMR信号が広幅にな ってピーク強度が落ちて、化学シフトが変わります。また、サリチル酸よりも強く結合するワルファリンと呼ばれる医薬品有機分子を混ぜた際に、NMR信号によりワルファリンがサリチル酸とHSAの結合を阻害する様子を示す明確なNMR信号の観測にも成功しました(図5)。

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図3. 700倍に高感度化されたサリチル酸の13C 溶液NMR信号(通常の熱平衡状態の信号とDNP信号との比較)

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図4. 実験装置

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図5. サリチル酸の13C 溶液NMR信号から蛋白質との結合や阻害を調べる。ヒト血清アルブミン(HSA)とワルファリン(war)を混ぜた場合の比較

本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)

本研究で用いられた結合や阻害の様子を調べる手法は、より強く蛋白質に結合する薬を探すための創薬NMRに用いられています。本成果は、室温でスピンを揃える手法で創薬NMRを700倍以上に高感度化して実現しました。従来の極低温を用いる方法に比べ小型で低コストな装置で可能になると考え、私たちはトリプレットDNPの社会実装を目指しています。創薬NMRの高感度化により、今までよりも少ない量の試料を用いた薬剤探索や、今まで低感度で実現することが難しかった精密な情報を得るNMR手法に応用されることなどが今後の展開として期待されます。

室温超偏極にはまだ解決しなくてはならない課題も多くあります。一番重要な課題はトリプレットDNP法により高感度化できる分子が従来法に比べてまだまだ制限されているということです。これは偏極源であるペンタセンの溶解度が低く、様々な分子に溶けないことに起因しています。2014年の室温超偏極に関する私たちの論文が出版された時点では数種類の分子しか高偏極化できませんでした。しかし、その後、私たちのチームを含む国内外の様々な研究チームがこの課題に取り組みました。可溶性ペンタセン誘導体を偏極源に用いる方法、超偏極状態を液体状態でリレーする方法、そして共晶トリプレットDNP法が開発され、適用可能な分子種は一気に増えています。私たちは、徳島大学と共同して本年5月に、共晶トリプレットDNP法(後述)を用いて生体分子の室温超偏極にも成功し、その論文がThe Journal of Physical Chemistry Letters誌に掲載されたばかりでした。今後もさらに高感度化できる分子が増えれば、様々な分子での創薬NMR手法が行えるようになります。本成果はこのような材料探索の重要性を高め、室温超偏極の応用の道を拓く成果であると私たちは考えています。

特記事項

本成果は、米国東部時間2023年7月4日(火)8時00分(日本時間7/4(火)21:00)に米国化学会のThe Journal of Physical Chemistry Lettersオンライン版で公開され、Editor's Choiceに選ばれました。
論 文 名:Protein−Ligand Interaction Analyses with Nuclear Magnetic Resonance Spectroscopy Enhanced by Dissolution Triplet Dynamic Nuclear Polarization
掲 載 先:The Journal of Physical Chemistry Letters
著  者:Koichiro Miyanishi, Toshihiko Sugiki, Takumi Matsui, Ryo Ozawa, Yuko Hatanaka, Hideo Enozawa, Yushi Nakamura, Tsuyoshi Murata, Akinori Kagawa, Yasushi Morita, Toshimichi Fujiwara, Masahiro Kitagawa, and Makoto Negoro

なお本研究は、文科省Q-LEAP「量子生命技術の創製と医学・生命科学の革新」(グラント番号:JPMXS0120330644)ならびにJST CREST事業、JSPS WPI「ヒューマンメタバース疾患研究拠点(PRIMe)」の支援のもと、行われました。

参考URL

用語説明

NMR(核磁気共鳴)

核スピンに静磁場をかけると、その磁場のまわりをコマのように歳差運動(首ふり運動)を行います。その歳差運動の周波数の電磁波(例えば、0.4テスラの磁場中の水素核スピンなら17 MHzの電磁波)を与えると、それに共鳴して首ふり運動の角度が変化し、放出された電磁波からその様子を観察できます。このような現象を核磁気共鳴(NMR)現象と呼びます。原子核の種類や分子構造の違いによって周波数が異なるので、この電磁波を解析することによって分子構造情報を調べることができます。これはNMR分光法と呼ばれ、化学分析に必要不可欠な方法となっています。

動的核偏極(DNP)

Dynamic Nuclear Polarization、動的核偏極:通常の分子中では、スピンの向きが反対の二つの電子が対になり、電子スピンによる電磁波の吸収、放出は打ち消されます。しかし、ラジカルと呼ばれる分子では不対電子が安定して存在しています。このようなラジカルを少量添加した試料に電子スピンが共鳴するマイクロ波を照射すると、電子スピンの首ふり運動の角度が変化します。この角度の変化する速度に、核スピンが共鳴する周波数が含まれるとき、電子スピンと核スピンの偏極率が交換されます。これによって核スピンの向きを揃えることを動的核偏極と呼びます。熱平衡状態の電子スピンを使ったDNPでは原理的には最大660倍の信号強度増大が可能となります。温度が低いほど熱平衡状態の電子スピンの偏極率は大きくなるので、従来のDNPではより高感度化を求めて極低温下で行われています。なお、Ovehauserの理論的発見やSlichterによる実験的実証がなされたのは1953年であり、今年は70周年にあたります。

偏極率

静磁場中の水素核スピンや電子スピンのエネルギー準位は、スピンが磁場に対して平行な状態のエネルギーと反平行な状態のエネルギーに分裂します。それぞれのエネルギーを持つスピンの占有数の差を総スピン数で割ったものが偏極率と定義されています。一般的な環境下での熱平衡状態では、偏極率はスピンの磁気回転比と静磁場強度に比例し、温度に反比例します。電子スピンの磁気回転比は水素核スピンに比べ660倍大きいので、同環境下では電子スピンの方が偏極率は660倍大きくなります。

創薬NMR

NMR分光や材料探索や物理学、生化学の研究などにも使われているが、創薬への応用が盛んにおこなわれている。本成果論文の著者である杉木博士によるレビュー論文にまとめられている。

“Current NMR Techniques for Structure-Based Drug Discovery” T. Sugiki, et al., Molecules 2018, 23(1), 148; https://doi.org/10.3390/molecules23010148

MRI(核磁気共鳴画像)

スピンの歳差運動の周波数、共鳴する電磁波の周波数は静磁場の強さに比例します。そのため、試料に勾配のある磁場を与えておくと、同じ分子でも場所によって共鳴する電磁波の周波数が変わることになります。MRIは、勾配磁場を用いて人体内部に含まれる水分子などの量の分布を、共鳴する電磁波を解析することで画像化する方法で、けがや病気の診断や脳機能の研究などに欠かせない分析法となっています。なお、本年はLauterberの発表から50周年にあたります。

共晶

通常の結晶状態とは異なり、複数種の分子がミクロなドメインサイズで無秩序に散らばったまま固体化された物質です。本成果はサリチル酸のドメインと、安息香酸にペンタセンがドープされたドメインに分かれた共晶で行われました。

スピン緩和

核スピンが集団で首ふり運動をしている時にその運動が揃っている状態からバラバラな状態へと引き戻そうとする緩和現象のことです。

化学シフト

スピンの歳差運動の速さはスピンにかかっている磁場の強さに比例します。外部から分子に磁場を印加すると分子中の電子状態がわずかに変化し、それが磁場を誘起します。これにより外部から印加した磁場分よりもわずかに歳差運動の速さがシフトしますが、この値を化学シフトと呼びます。この誘起磁場は原子の取り巻く化学的な環境によって異なり、メチル基の水素核、ベンゼン環の水素核などとの間でこの化学シフトの値が異なります。NMR分光は化学シフトのおかげで、共鳴する電磁波の周波数を解析してどのような化学的な環境からの信号かを調べることができるのです。