数理モデルが結んだ「匂い応答行動〜神経活動〜遺伝子」の関係

数理モデルが結んだ「匂い応答行動〜神経活動〜遺伝子」の関係

線虫の匂い応答行動と神経活動と遺伝子の関連が、簡単な数式によって明らかになった

2023-2-7自然科学系
理学研究科准教授藤本仰一

研究成果のポイント

  • 線虫は嫌いな匂いを経験すると、その匂いからより効率的に逃げるようになる。
  • 匂いを感ずる神経細胞は、匂いを初めて嗅ぐ場合は「素早く継続する反応」を、匂いを既に経験した場合は「ゆっくり継続する反応」を示した。
  • 薬理学的解析と数理モデルを組み合せることによって、「素早く継続する反応」は「一階微分と二階微分の和」、また「ゆっくり継続する反応」は「一階微分のみ」で表わせること、つまり匂いの経験によって二階微分の項が数理モデルから消えることが分かった。
  • さらに遺伝学的解析を行うことで、「二階微分の項の消去」に関わる可能性がある遺伝子が同定できた。

概要

名古屋市立大学大学院理学研究科の池尻洋輔特別研究学生(大阪大学大学院理学研究科大学院生)、名古屋市立大学大学院理学研究科の木村幸太郎教授(大阪大学大学院理学研究科 招へい教授)、弘前大学大学院理工学研究科の岩谷靖准教授、大阪大学大学院理学研究科の藤本仰一准教授らの共同研究グループは、線虫の匂いを感ずる神経細胞の活動が単純な数式によって表わせること、さらに刺激の経験によって生じた細胞活動の変化が数式の一つの「項」の消失で説明できること、さらにはその「項の消失」に相当する細胞活動変化に関わる遺伝子の候補も見出しました。この研究の成果は、数理モデルを用いた異なる研究手法の統合が神経活動の変化のより深い理解につながることを示しています。この論文は、国際神経科学専門誌Neuroscience Researchに発表されました。(2月1日時点オープンアクセス版としてWeb公開)

研究の背景

私たちヒトや動物は、光・音・匂いなどさまざまな刺激を神経細胞で感じて、その情報が脳に送られます。このような神経細胞の活動は、刺激を経験することによって変化していきます。例えば、光・音・匂いなどをしばらく経験していると鈍感になる「慣れ」が起きますし、逆に感じていた刺激に敏感になることもあります。自然における光・音・匂いなどの刺激の強さの幅は非常に広く、弱い刺激から強い刺激まで何億倍もの違いがある場合が存在するので、刺激に対して鈍感あるいは敏感になる神経細胞の「感度調節」の役割はとても重要ですが、その仕組みはよく分かっていません。

研究の成果

研究グループは、線虫C. エレガンス(以下「線虫」と呼びます)に注目して、嫌いな匂いに対する応答行動と、この匂いを感ずる神経細胞の感度調節に関して詳しく研究を行いました。研究グループはこれまでに、①線虫が嫌いな匂いを経験するとその匂いからより効率的に逃げるようになることを発見し、また②行動中に線虫が感ずる匂い濃度の変化を正確に測定し、③この匂い濃度変化を正確に再現しながら顕微鏡上で線虫の神経細胞活動を光学的に計測する技術(カルシウムイメージング)を開発していました。しかし、匂い刺激を経験してより逃げるようになる時に、神経細胞にどのような変化が起きているかは分かっていませんでした。

 研究グループは、匂いを初めて嗅ぐ場合はわずかな匂い濃度の変化にもこの神経細胞が素早くかつ継続的に反応する一方で、すでにこの匂いを経験している場合はゆっくりと継続的に反応することを見出しました。この違いを詳しく理解するために、薬理学的解析と数理モデル化という手法を組み合せて用いたところ、匂いを初めて嗅ぐ場合の「素早く継続する反応」は「匂い濃度の一階微分と二階微分の和の漏れ積分」という比較的単純な数式で表わすことができました(図上)。さらに、匂いをすでに経験した場合の「ゆっくり継続する反応」は「匂い濃度の一階微分の漏れ積分」のみで表わせること、つまり「二階微分の項」がほぼ消えていることが分かりました(図下)。「素早く継続する反応」と「ゆっくり継続する反応」は、細胞の反応をグラフに描いた時に幾つもの部分が異なるにも関わらず、「二階微分の項が消える」というたった一つの変化でほぼ全ての変化が説明できました。

数理モデルで単純に記述できたということは、細胞活動に関わるメカニズムが単純である可能性を示しています。研究グループはさらに幾つかの遺伝子の機能が異常になった変異株で同様の解析を行うことで、Gタンパク質に関わる遺伝子が「二階微分の項」に相当する細胞活動を制御している可能性を発見しました。

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研究の意義と今後の展開や社会的意義など

神経細胞に限らず、さまざまな細胞の活動が顕微鏡によって正確かつ大量に計測されるようになってきています。こういった「細胞活動ビッグデータ」はさまざまな数値の側面が異なり、正しく理解することは簡単ではありません。数学的な解析はこれらビッグデータの理解を強力に助けてくれますが、数学的な解析結果だけでは生命現象の理解に結びつくのは困難です。

今回の研究グループは、匂い刺激・神経活動・応答行動をそれぞれ正確に測定し、さらに数理モデル化と薬理学的解析や遺伝学的解析を組み合せることで、匂いを感ずる神経細胞の活動が微分を用いた数式(微分方程式)で表わすことができ、さらに経験によって生じた神経細胞活動の変化が数式のたった1つの項の消失として理解できること、さらにはその「項の消失」に関わると考えられる遺伝子を明らかにすることができました。

この研究は、細胞活動を表わす数理モデルの研究に新しい手掛かりを与えると共に、同様に数理モデルをさまざまな生物学的実験と組み合せることによって、私たちの生命現象の理解がより広まる可能性を示しているといえます。

特記事項

【論文情報】
【論文タイトル】"Neural mechanism of experience-dependent sensory gain control in C. elegans"
(線虫における経験依存的なゲイン調節の神経メカニズム)
【著者】Yosuke Ikejiri, Yuki Tanimoto, Kosuke Fujita, Fumie Hiramatsu, Shuhei J. Yamazaki, Yuto Endo, Yasushi Iwatani, Koichi Fujimoto, Koutarou D. Kimura
【所属】
池尻洋輔(名古屋市立大学大学院理学研究科特別研究学生および大阪大学大学院理学研究科大学院生)
谷本悠生(大阪大学大学院理学研究科、大学院生)(当時)
藤田幸輔(大阪大学大学院理学研究科、博士研究員)(当時)
平松文惠(大阪大学理学部、学生)(当時)
山崎修平(大阪大学大学院理学研究科、大学院生)(当時)
遠藤雄人(名古屋市立大学大学院理学研究科特別研究学生および大阪大学大学院理学研究科大学院生)
岩谷靖(弘前大学大学院理工学研究科、准教授)
藤本仰一(大阪大学大学院理学研究科、准教授)
木村幸太郎(名古屋市立大学大学院理学研究科、教授;大阪大学大学院理学研究科、招へい教授)
【掲載学術誌】
学術誌名 Neuroscience Research
DOI番号:https://doi.org/10.1016/j.neures.2023.01.006

本研究は、科学研究費新学術領域研究「生物移動情報学」(木村幸太郎、JP16H06545;岩谷靖、17H05968、19H04925)、基盤研究(B)(木村幸太郎、21H02533)、国際共同研究強化(B)(木村幸太郎、22KK0100)、文部科学省博士課程教育リーディングプログラム「生体統御ネットワーク医学教育プログラム」(谷本悠生、山崎修平、遠藤雄人)、名古屋市立大学特別研究奨励費(木村幸太郎、48、1912011、1921102、2121101)、豊秋財団研究費助成(木村幸太郎)、理化学研究所革新知能統合研究センター共同研究(木村幸太郎)の支援を受けて行われました。

用語説明

カルシウムイメージング

顕微鏡など光学装置を用いて現象を測定することを「イメージング」と呼びます。神経細胞の活動は細胞の中のカルシウムイオン濃度と関連していることが知られているので、GFP(緑色蛍光タンパク質)を改造したタンパク質を用いて細胞中のカルシウム濃度を緑色の蛍光に変換して測定すること(カルシウムイメージング)で神経活動を測定することができます。神経細胞の活動は電気的な変化ですが、神経細胞の活動を電気的に1つ1つ測定するよりも、顕微鏡を用いたカルシウムイメージングを行えば、より容易に多数の神経細胞の活動が測定できるので、最近はこの手法が流行しています。

薬理学的解析

特定のタンパク質に作用する化学物質(薬剤;必ずしも人の病気を治す化学物質ではありません)を用いることでタンパク質の活性を阻害または亢進させ、そのタンパク質が注目している生命現象において果たす役割を分析すること。本研究の場合は、他の神経細胞で「ゆっくり継続する反応」を抑えることが分かっていた薬剤を匂いを感ずる神経細胞に作用させた結果、「素早くて一時的な反応」が残ったことから、この神経細胞の反応が「ゆっくり継続する反応」と「素早くて一時的な反応」の2つから構成されていることが明らかになりました。数理モデルは、「ゆっくり継続する反応」と「素早くて一時的な反応」がそれぞれどのような特徴を持つかを、詳しく明らかにしました。

数理モデル化

注目している現象の特徴の重要な部分を数式によって説明すること。数式を用いることによって、現象の中の仕組みを推定したり、将来の予測などを正確に行うことが可能になります。

一階微分、二階微分、漏れ積分

関数の変化の割合を微分(一階微分)で表します。一階微分の値の変化の割合は二階微分で表わします。例えば、位置の変化の割合は速度(一階微分)であり、速度の変化の割合は加速度(二階微分)です。

Gタンパク質

細胞の外から来た化学物質の刺激を細胞の中のさまざまな場所に伝える仕組みのことを「細胞内情報伝達」と呼び、Gタンパク質はその仕組みの重要なものの一つです。この研究では、Gタンパク質のはたらきに関わる2つの遺伝子(RGSとPKG)の機能が失われると、「2階微分の項」が消えてしまうことから、2階微分の項はGタンパク質によって制御されていることが明らかになりました。