「受精卵のゲノムから将来を予測するサービス」に 対する技術的・倫理的問題点を提言
研究成果のポイント
- 体外授精において受精卵(胚)の遺伝的疾患リスクを予測し胚をスコア化するサービスの精度を検証し、技術的・倫理的問題点について提言。
- 胚を遺伝的疾患リスクの高低で順位づけすることについて、リスク予測に用いるAI(計算手法)を変えることで順位が大きく変わることがあり、同じ計算手法を繰り返すだけでも順位が変わることがあった。
- 信頼性が低い手法で胚を選び、残りの胚を捨ててよいのかという倫理的問題につながる可能性がある。
- 遺伝的疾患リスクスコアを用いた胚選択には他にも技術的・倫理的な問題があり、研究チームはこれらの解決すべき問題点を整理して提言した。
概要
大阪大学大学院医学系研究科の難波真一 招へい教員(遺伝統計学/東京大学大学院医学系研究科 助教/理化学研究所生命医科学研究センター 客員研究員)、加藤和人 教授(医の倫理と公共政策学)、岡田随象 教授(遺伝統計学/東京大学大学院医学系研究科 教授/理化学研究所生命医科学研究センター チームリーダー)らの研究チームは、近年世界各地で提供されている「受精卵の疾患リスク予測と順位付け」について、その精度と信頼性に疑問が残ることを解明し、問題点を提言しました。
体外授精においては複数の卵子を採卵し、1つの受精卵(胚)を選んで子宮内に戻します。通常は胚の質(グレード)等を参考にして胚を選びますが、胚のゲノムから将来の疾患リスクを予測して胚をスコア化することで胚選択を行うサービスが存在し、すでに世界各地で提供されています(図1)。
今回、研究グループはバイオバンクの公開データを用いて検証を行い、サービスの精度を測定しました。その結果、疾患リスク予測のAI(計算手法)を変えることによって胚の順位づけが大きく変わってしまうことを示しました。さらに、同じ計算手法を使っていても、疾患リスク予測を繰り返すだけで胚の順位づけが変わりました。研究チームはこれらの結果から、現在の遺伝的予測スコアは胚選択に用いるには信頼性が低く未成熟であるという問題点を提示しています。
本研究成果は、英国科学誌「Nature Human Behaviour」に10月14日(月)18時(日本時間)に公開されました。
図1. 胚選択サービスの概要
研究の背景
大規模なゲノム解析(ゲノムワイド関連解析)によって、ゲノム上に存在する数万箇所の個人差(遺伝子多型)が疾患リスクや身長、体重といった様々な特徴(形質)に関与していることがわかってきました。個人のゲノム配列を読み、一つ一つの遺伝子多型による影響をゲノム全体で集計して一つのスコア(ポリジェニックリスクスコア [polygenic risk score], PRS)にまとめることで、疾患リスク等の形質を予測することが可能になってきています。PRSの臨床応用として、疾患リスクの高い人を特定して早期発見や予防につなげる「個別化治療」がさかんに研究されていますが、医療現場で実用化できるレベルには至っていません。一方、このような状況の中で、PRSを用いた胚選択のサービスがすでに世界各地で提供されており、実際にPRSを用いて胚選択をおこなった結果生まれた子どもも存在します。
サービスを提供する企業は、PRSを胚選択に用いることで疾患リスクの低い子どもを得られると主張しています。一方で、様々な研究者や学術団体が技術的、倫理的な面で警鐘を鳴らしています。特に、企業の中には過去に低身長や知的障害に対するPRSを用いた胚選択を広報したり、認知機能や肌の色に対するPRSを用いた胚選択を将来提供しうると公言したりした企業が存在します。このような姿勢でPRSを胚選択に用いることは「遺伝的に優れている・劣っている」という優生学的な思想につながりかねないと研究者から問題視されていました。しかしながら、アメリカで最近行われた調査では、PRSを用いた胚選択を行いたいと答えた人は半数程度にものぼり、専門家の懸念とは裏腹に高い需要があることが明らかになりました。
研究の内容
研究グループはPRSの計算手法に着目し、PRSを用いた胚選択にはこれまで指摘されてきた以上に大きな課題があるのではないかと考えました。PRSを計算するには、ゲノム解析の結果に基づいて、どの遺伝子多型がどれだけの効果を持っているかをAI(ベイズ統計や機械学習などの計算手法)で推定する必要があります。PRSの予測性能を高めるために様々な計算手法が提案されていますが、際立って優れた計算手法は存在せず、研究者によって異なる計算手法が使われています。計算手法が異なるとPRSも異なるスコアになるため、研究グループは、計算手法の違いが胚選択に大きな影響を及ぼすのではないかと考えました。
今回、研究グループは、日本最大規模のバイオバンクであるバイオバンクジャパンの公開ゲノムデータを利用して、PRSによる胚選択をシミュレーションしました。具体的には、仮想的に500組のカップルを生成し、カップルごとにゲノムの遺伝様式をコンピュータ上で再現することで10個の胚ゲノムを生成しました。これらの胚に対して様々なPRSを計算し、胚の順位づけを行いました(図2)。
図2. 本研究の概要
まず、研究グループは6つの計算手法を用いて、身長を予測するPRSを6種類計算しました。身長は、PRSによる予測が最も高精度な形質の一つで、欧米人集団では配偶者選好に関わっていることが過去のゲノム研究でわかっています。そして、6種類のPRSそれぞれについて、最も背が高くなると予測された胚を選び、PRS計算手法間で同じ胚が選ばれたかを比べました。驚いたことに、どのPRS計算手法どうしを比べても、同じ胚が選ばれた確率は30%程度にすぎませんでした(中央値 30.0%; 全範囲 20.4%–41.6%)(図3)。
図3. 1位と予測された胚のPRS計算手法間での一致率
さらに悪いことに、PRS計算手法を変えると、1位と予測されていた胚が最下位に変わったり、逆に最下位と予測された胚が1位に変わったりしたケースもありました(図4)。これらの結果は、もし胚選択に使うPRS計算手法が違ったら、別の胚が選ばれていたかもしれないということを示しています。
図4. 計算手法を変えると1位と最下位の胚が逆転しうる
研究グループは、実際に胚選択サービスの対象になっている2型糖尿病についてもシミュレーションを行い、PRS計算手法を変えると選ばれる胚が変わることを確かめました。また、近い将来にどれだけゲノム解析が大規模になったとしてもこの問題は解決しないこともシミュレーションで確かめました。
PRS計算手法の中にはベイズ統計を用いた手法が含まれています。これらの手法は、PRS計算を繰り返すとわずかに異なるPRSが計算されます。そのため、選ばれる胚もPRS計算を繰り返すと異なってしまうことがわかりました。これらの結果は、PRSはあくまで個々の統計モデルによって予測されたスコアであり、胚の将来を決定的に予測したものではないことを示しています。
最後に、研究グループはPRSによる胚選択サービスにおける技術的・倫理的課題を包括的に検討し、解決すべき課題として提言しました(ボックス1)。
ボックス1:PRSによる胚選択サービスの技術的・倫理的課題
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
本研究によって、PRSによる胚選択サービスには計算手法間での一貫性がなく、臨床的に使用するには未成熟な技術であることがわかりました。信頼できない方法で胚を選びその他の胚を捨てることは倫理的な問題につながると懸念されます。サービスを提供する企業は、「PRSによる胚選択で〇〇%疾患リスクを抑えた子どもを得られる」と説明しますが、このような具体的な数字は信頼性に乏しいことは本研究の結果から明らかです。遺伝カウンセリングやインフォームド・コンセントを通じてサービス利用者にリスク・ベネフィットを正確に伝えることが重要ですが、現実には十分な体制が整えられていないと専門家は懸念しています。また、たとえサービス利用者に正確な知識が伝えられたとしても、生まれた子どもに正確な知識が伝えられるとは限らず、注意深くサポートしていく必要があります。特に、すでにこのサービスによって生まれた子どもの尊厳をしっかりと守ることも大切なポイントです。
PRSによる胚選択以外にも胚のゲノム検査(着床前遺伝学的検査)はいくつか存在し、すでに臨床現場で使われています。日本やヨーロッパのいくつかの国では長い議論を経て、これらの着床前遺伝学的検査は、不妊症治療における胚移植の失敗あるいは流産のリスクを減らすため、または重篤な遺伝性疾患を有する子の誕生を避けるために用いられています。これらの着床前遺伝学的検査と比べると、PRSによる胚選択サービスは結果が安定せず、また対象疾患も生活習慣などである程度予防することが可能です。PRSによる胚選択サービスを社会全体として許容するのか、それともどのように規制していくのかについて、技術的・倫理的な課題、特に本研究で明らかになった信頼性の欠如を踏まえて議論していくことが望まれます。
特記事項
本研究成果は、10月14日(月)18時(日本時間)に英国科学誌「Nature Human Behaviour」に公開されました。
【タイトル】 “Inconsistent embryo selection across polygenic score methods.”
【著者名】Shinichi Namba1–3,26, Masato Akiyama4, Haruka Hamanoue5, Kazuto Kato6, Minae Kawashima7, Itaru Kushima8,9, Koichi Matsuda10,11, Masahiro Nakatochi12, Soichi Ogishima13,14, Kyuto Sonehara1–3, Ken Suzuki2, Atsushi Takata15, Gen Tamiya16–18, Chizu Tanikawa11, Kenichi Yamamoto2,19–21, Natsuko Yamamoto6,22,23, The BioBank Japan Project*, Norio Ozaki24, and Yukinori Okada1–3,21,25,26
【所属】
1. 東京大学大学院医学系研究科 遺伝情報学
2. 大阪大学大学院医学系研究科 遺伝統計学
3. 理化学研究所 生命医科学研究センター システム遺伝学チーム
4. 九州大学大学院医学研究院 眼病態イメージング講座
5. 横浜市立大学附属病院 遺伝子診療科
6. 大阪大学大学院医学系研究科 医の倫理と公共政策学
7. 大学共同利用機関法人 情報・システム研究機構 データサイエンス共同利用基盤施設
8. 名古屋大学大学院医学系研究科 精神医学分野
9. 名古屋大学医学部附属病院 ゲノム医療センター
10. 東京大学医科学研究所 シークエンス技術開発分野
11. 東京大学大学院新領域創成科学研究科メディカル情報生命専攻 クリニカルシークエンス分野
12. 名古屋大学大学院医学系研究科 実社会情報健康医療学
13. 東北大学 未来型医療創成センター
14. 東北メディカルメガバンク機構 ゲノム医科学情報学分野
15. 理化学研究所 脳神経科学研究センター 分子精神病理研究チーム
16. 東北大学大学院医学系研究科 AIフロンティア新医療創生分野
17. 東北メディカルメガバンク機構 ゲノム遺伝統計学分野
18. 理化学研究所 革新知能統合研究センター 遺伝統計学チーム
19. 大阪大学大学院医学系研究科 成育小児科学研究室
20. 大阪大学大学院医学系研究科 小児科
21. 大阪大学 免疫学フロンティア研究センター(IFReC) 免疫統計学
22. 大阪大学 D3センター(データビリティフロンティア機構から改組)
23. 大阪大学 社会技術共創研究センター
24. 名古屋大学大学院医学系研究科 精神疾患病態解明学
25. 大阪大学 ヒューマン・メタバース疾患研究拠点 (PRIMe)
26. 共同責任著者
DOI https://www.nature.com/articles/s41562-024-02019-y
本研究は、日本医療研究開発機構(AMED)ゲノム医療実現推進プラットフォーム事業・先端ゲノム研究開発(GRIFIN)「遺伝子–環境相互作用の学術・オミクス横断による個別化医療の実装」(研究開発代表者:難波真一)、同「オリゴジェニックモデルに基づくヒト疾患の遺伝的構造の解析」(研究開発代表者:髙田篤)、同「次世代ゲノミクス研究による乾癬の疾患病態解明・個別化医療・創薬」、「遺伝統計学に基づく日本人集団のゲノム個別化医療の実装」、免疫アレルギー疾患実用化研究事業「全ゲノム・一細胞シークエンス統合解析による関節リウマチの病態層別化と個別化医療実装」、ゲノム創薬基盤推進研究事業・ゲノム研究を創薬等出口に繋げる研究開発「ブレインアトラス創生による精神神経疾患のシングルセル・ゲノム創薬」(研究開発代表者:岡田随象)、障害者対策総合研究開発事業<精神障害分野>「精神科トランスレーショナルリサーチの推進に向けた精神医学研究システムの開発」(研究開発代表者:尾崎紀夫)の一環として行われ、日本応用酵素協会、大阪大学免疫学フロンティア研究センター、大阪大学先導的学際研究機構、大阪大学大学院医学系研究科バイオインフォマティクスイニシアティブ、武田科学振興財団の協力を得て行われました。
用語説明
- ゲノムワイド関連解析
ヒトゲノム配列上にする数百万カ所の個人差(遺伝子多型と呼ばれる)を網羅的にタイピングし、疾患や形質との関連を網羅的に探索する手法。
- ベイズ統計
事前知識をもとに、観測されたデータを反映することで物事の確率を推定する統計学の手法。
- 機械学習
大量のデータをコンピュータに読み込ませて、データに潜むパターンを学習させる手法。
- バイオバンク
生体試料や臨床情報を集めて保管し、医学研究に活用する仕組み。
- 遺伝カウンセリング
遺伝に対する正確な医学情報をわかりやすく伝えるとともに、心理面や社会面を含めた支援を行う医療行為。
- インフォームド・コンセント
診療内容などについて十分な説明を受けて納得した上で、患者自身の同意で医療行為を選択すること。