単一分子の精密ナノ分光

単一分子の精密ナノ分光

観察しているナノ物質の性質を正確に評価する手法の確立

2021-7-2工学系
基礎工学研究科教授石原一

概要

理化学研究所(理研)開拓研究本部Kim表面界面科学研究室の今田裕上級研究員、今井みやび特別研究員、金有洙主任研究員らの共同研究グループ※は、ナノメートル(nm、1nmは10億分の1メートル)サイズの領域に局在する光を用いることで、原子分解能を持つ顕微鏡で観察しているナノ物質の性質を直接測る精密ナノ分光手法を確立しました。  

本研究成果は、エネルギーの高効率利用に向け、ナノスケールの分子系で生じるエネルギー変換や物質変換の機構解明に貢献するものと期待できます。

これまで、精密な分光計測には主にレーザー光が用いられてきましたが、空間分解能が数百nmと不十分でした。一方で、原子分解能で物質を観察できる顕微鏡では、精密な分光法が開発されておらず、顕微鏡で見ているナノ物質の性質を正確に測ることは困難でした。

今回、共同研究グループは、原子分解能を持つ走査トンネル顕微鏡(STM)と狭線幅の波長可変レーザーを組み合わせ、マイクロ電子ボルト(μeV、1μeVは100万分の1eV)という高いエネルギー分解能とnmという高い空間分解能を併せ持つ精密ナノ分光法を開発しました。さらにこの手法を用いて、化学種の同定、ナノ空間で生じるシュタルク効果の発見とその機構解明に成功しました。

本研究は、科学雑誌『Science』(7月2日付)に掲載されました。

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図 開発した精密ナノ分光のイメージ

※共同研究グループ 理化学研究所 開拓研究本部
Kim表面界面科学研究室   
  上級研究員  今田 裕 (いまだ ひろし)
  (科学技術振興機構(JST) さきがけ研究員)
  特別研究員  今井 みやび (いまい みやび)
  基礎科学特別研究員  木村 謙介 (きむら けんすけ)
  主任研究員 金 有洙 (きむ ゆうす)
内山元素化学研究室
  実習生(研究当時) 田中 裕介 (たなか ゆうすけ)
  実習生(研究当時) 鳥海 尚之 (とりうみ なおゆき)
  専任研究員 村中 厚哉 (むらなか あつや)
  主任研究員 内山 真伸 (うちやま まさのぶ)
  (東京大学 大学院薬学系研究科 教授)
加藤ナノ量子フォトニクス研究室
  主任研究員 加藤 雄一郎 (かとう ゆういちろう)
  (光量子工学研究センター 量子オプトエレクトロニクス研究チームチームリーダー)
分子科学研究所
  特任助教 三輪 邦之 (みわ くにゆき)
大阪府立大学大学院 工学研究科
 特任助教(研究当時) 山根 秀勝 (やまね ひでまさ)
 准教授 余越 伸彦 (よこし のぶひこ)
 教授 石原 一 (いしはら はじめ)
 (大阪大学 大学院基礎工学研究科 教授)
北海道大学大学院 理学研究院
 助教 岩佐 豪 (いわさ たけし)
  (科学技術振興機構(JST) さきがけ研究員)
 教授 武次 徹也 (たけつぐ てつや)

研究支援 本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金若手研究(A)「単一分子STMフォトルミネッセンス法の開発及びエネルギーダイナミクスの解明と制御(研究代表者:今田裕)」、同新学術領域研究(研究領域提案型)「単一分子近接場光ピンセット法の確立と光機能性分子配列の創出(研究代表者:今田裕)」、同研究活動スタート支援「単一分子エネルギーアップコンバージョンの機構解明と高効率化(研究代表者:今井みやび)」、同基盤研究(S)「走査トンネル顕微鏡で拓く微小極限の光科学(研究代表者:金有洙)」、同基盤研究(S)「物質と生命を光でつなぐ分子技術の開発(研究代表者:内山真伸)」、同新学術領域研究(研究領域提案型)「理論計算を基盤とした生合成経路の探索と生合成リデザインへの挑戦(研究代表者:内山真伸)」、同基盤研究(B)「らせん構造をもつフタロシアニン系化合物の合成と機能開拓(研究代表者:村中厚哉)」、同基盤研究(C)「近接場光が誘起する双極子近似を超えた光化学反応機構の解明(研究代表者:岩佐豪)」、同新学術領域研究(研究領域提案型)「分子結晶の励起状態と発光機構(研究代表者:岩佐豪)」、同基盤研究(C)「新たな窒素固定反応の開発(研究代表者:日隈聡士)」、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業さきがけ「分子間コヒーレントエネルギー移動の時空間計測と制御(研究者:今田裕)」、同「近接場光による励起状態制御の理論(研究者:岩佐豪)」による支援を受けて行われました。

背景

分子が光や電流によって励起されると、励起状態から基底状態へ戻る過程において、発光や光電変換、光化学反応などさまざまなエネルギー変換現象を示します。そのため、有機材料の新しいエネルギー変換機能を引き出すには、励起状態の性質を理解してそれを制御することが重要な課題です。これまで励起状態の研究では、レーザー光などを用いた分光法が用いられてきましたが、空間を伝播する光は、その回折限界のために、波長の半分程度(可視光の場合で数百ナノメートル[nm、1nmは10億分の1メートル])の領域にしか集光できず、ナノスケールの物質を観察できませんでした。

一方で、原子分解能で物質を観察できる電子顕微鏡や走査型プローブ顕微鏡においては、顕微鏡下で行える分光計測手法が未発達でした。従って、原子・分子レベルで物質を観察し、見ている物質の励起状態の性質やそこから生じるプロセスを直接に調べることは非常に難しく、エネルギー変換研究において障害の一つとなっていました。

金有洙主任研究員らは、原子レベルの空間分解能を持つ走査トンネル顕微鏡(STM)と光学技術を融合させた装置(光STM)を開発し、近年では、さまざまな現象を単一分子レベルで観測することに成功しています注1-4)。今回、共同研究グループは、光STMに狭線幅の波長可変レーザーを組み合わせることで、顕微鏡観察している単一分子の励起状態の性質を、高いエネルギー分解能と空間分解能で直接に調べられる手法の開発に取り組みました。

注1)2016年10月4日プレスリリース「分子間エネルギー移動の単分子レベル計測に成功」
http://www.riken.jp/pr/press/2016/20161004_1/

注2)2017年7月5日プレスリリース「新原理に基づく単一分子発光・吸収分光を実現」
http://www.riken.jp/pr/press/2017/20170705_1/

注3)2019年6月6日プレスリリース「有機ELの新たな発光機構を発見」
http://www.riken.jp/pr/press/2019/20190606_1/

注4)2020年2月17日プレスリリース「単一分子による共鳴ラマン散乱の可視化に成功」
http://www.riken.jp/pr/press/2020/20200217_1/

研究手法と成果

共同研究グループは独自に開発した光STM装置を用いて、単一分子のフォトルミネッセンス(PL)分光測定を行いました。実験の概念図を図1左に示します。先端が鋭く尖った金でできたSTM探針と金属基板間のnmサイズの隙間にレーザー光を照射すると、局在する近接場光を誘起することができます。ここで生じる近接場光のエネルギー(振動数)は、外部から照射するレーザー光のエネルギー(振動数)で決まるため、レーザー光のエネルギーを変えることで外部から精密に制御できます。

近接場光を光STMで観察している単一のフタロシアニン(H2Pc)という分子(図1中央)に近づけ、照射レーザー光のエネルギーを変化させながら分子発光の強度を計測すると、図1右に示すような励起スペクトルが得られました。大きなピークは、フタロシアニン分子の基底状態から励起状態への純粋な電子励起によるものであり、その高エネルギー側にある小さなピークは分子振動の励起を伴った電子励起によるものです。このような励起スペクトル測定によって、単一分子の個々の励起状態のエネルギー値やピークの幅をマイクロeV(μeV、1μeVは100万分の1eV)レベルの高いエネルギー分解能で測ることができました。このような精密な分光手法を用いれば、化学的・物理的に重要な情報を取得できる可能性があります。

次に、この手法の有用性を示すために、高精度なスペクトル測定から観察対象の化学種を同定することと、局所的な静電場による共鳴エネルギーシフト(シュタルク効果)を解明することに取り組みました。

図2には、H2Pc分子と、その中心の二つの水素原子(H)を重水素(D)に置換された分子(D2Pc)からの発光スペクトルを示します。単一分子を選択的に励起し発光スペクトルを計測すると、励起エネルギーよりも低エネルギーの領域に、分子振動励起を伴う数多くのピークが観測されます(振動スペクトル)。

振動スペクトルに見られる一つ一つのピークはそれぞれ異なる分子振動モードに対応しており、分子振動のエネルギーを詳しく調べることで分子種を同定できます。水素原子が重水素原子に置き換わると質量が重くなるため、振動数(振動エネルギー)が低くなることが期待されます。ここでは、分子中心の二つの水素原子を重水素に置換した際に生じる微小なピークシフトを実験により計測し、それを第一原理計算による理論解析結果と比較することによって、H2PcとD2Pcとを区別することに成功しました。

図3に、STM探針直下の単一分子に働くシュタルク効果を調べるために、STM探針と金属基板の間に加える電圧を変化させながら取得した励起スペクトルを示します。印加電圧(探針の電圧)の増加とともに、ピークエネルギーが増加しました。ここでは、ピークエネルギーのシフト量が印加電圧(静電場の強さ)に対して正比例に近い関係を示し、線形のシュタルク効果がはっきりと現れています。研究開始時にはこのような線形シュタルク効果の発現は期待されておらず、想定外の新しい発見となりました。

空間的に一様な静電場の下では、反転対称性を持つ分子(フタロシアニンを含む)は線形シュタルク効果を示さないことが知られています。第一原理計算による理論シミュレーションと実験結果によって、今回の実験のような金属ナノギャップにおいては静電場が空間的に非一様になり、反転対称性を持つ分子であっても線形シュタルク効果を生じることが明らかになりました。

この結果は、外部から加える電圧によって狙った単一分子の励起エネルギーを精密に制御できるため、分子間に働く双極子相互作用の強さや共鳴エネルギー移動の速度などを制御できる可能性を示しています。また、有機発光素子などエネルギー変換デバイスの内部でもこのような従来想定されていなかった現象が生じており、その特性に影響を与えている可能性もあります。これらを理解したうえで制御できれば、有機デバイスの特性制御や高機能化につながるかもしれません。

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図1. 光STMを用いた単一分子精密ナノ分光 左) レーザー光照射(青矢印)によりSTM探針直下に局在する近接場光(プラズモン)を振動させると、レーザー光のエネルギーで精密に決まる振動数の近接場光が誘起される。その近接場光をSTM観察している単一分子に近づけると、分子が励起されその発光(赤矢印)を計測できる。
中央) フタロシアニン分子のSTM像。分子モデル中の青丸は窒素、灰色丸は炭素、白丸は水素を示す。STM像中の青丸は励起スペクトル測定時のSTM探針位置である。
右) レーザーのエネルギーを細かく変化させると、発光強度が変化するため、分子の励起エネルギーを精密に測ることができる(励起スペクトル測定)。1.817 eVのピークは、フタロシアニン分子が基底状態から励起状態への純粋な電子励起によるもので、1.824 eVのピークは分子振動励起を伴った電子励起によるものである。

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図2. 単一分子の振動スペクトルによる化学種の同定 左) 分子中心に水素原子がある分子(H2Pc)と重水素に置換された分子(D2Pc)で測定したSTM-PLスペクトル。右図のエネルギーダイアグラムに示すように、スペクトルに見られる一つ一つのピークは基底状態での分子振動モードの励起を伴う発光過程に由来し、励起エネルギーと発光ピークのエネルギー差(相対エネルギー)は基底状態での分子振動のエネルギーに対応する。スペクトルを詳細に調べたところ、分子中心が振動する振動モードのエネルギーに違いが生じることが分かった。モード1では分子中心が振動せず、H2PcとD2Pcで振動エネルギーに差がないが、モード2、3では分子中心が振動するため、重水素と水素の質量差によって振動エネルギーに差が生じている。このようにして、スペクトルからH2PcとD2Pc を区別できる。
右) STM-PLのエネルギーダイアグラム。低温で基底状態にある分子に対して精密にチューンされたレーザー光を照射して、状態選択的に励起状態の振動基底状態へ遷移させ、そこからの発光を検出する。発光スペクトルに現れるピークは、基底状態の振動励起状態への遷移に由来し、そのピークエネルギーから振動モードのエネルギーを測定できる。

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図3. 単一分子に働くシュタルク効果 STM探針と基板の間に加える電圧を変化させると(左)、探針近くにある分子の励起エネルギーがシフトするシュタルク効果がはっきりと観測された(右)。

今後の期待

本研究では、顕微鏡で観察している物の量子状態を精密に測る手法を開発しました。今後は、孤立分子だけではなく、多種多様な分子・原子・欠陥が相互作用するヘテロな系への展開が期待できます。

また、この手法をベースとしてパルスレーザーを導入することで、時空間分解分光への発展が可能です。物の構造やエネルギー準位が良く規定された系においてエネルギーダイナミクスを調べることで、豊富な機能の源である励起状態の詳細が解明され、エネルギーの高効率利用につながると期待できます。

論文情報

<タイトル> Single-molecule laser nanospectroscopy with micro–electron volt energy resolution
<著者名> Hiroshi Imada, Miyabi Imai-Imada, Kuniyuki Miwa, Hidemasa Yamane, Takeshi Iwasa, Yusuke Tanaka, Naoyuki Toriumi, Kensuke Kimura, Nobuhiko Yokoshi, Atsuya Muranaka, Masanobu Uchiyama, Tetsuya Taketsugu, Yuichiro K. Kato, Hajime Ishihara, Yousoo Kim
<雑誌> Science <DOI> 10.1126/science.abg8790

用語説明

走査トンネル顕微鏡(STM)

先端を尖がらせた金属針(探針)を測定表面に極限に近づけたときに電流が流れるトンネル現象を測定原理として用いる装置。試料表面をなぞるように走査して、その表面の形状を原子レベルの空間分解能で観測する。探針と試料間に流れる電流をトンネル電流と呼び、トンネル電流を検出し、その電流値を探針と試料間の距離に変換させ画像化する。STMはScanning Tunneling Microscopeの略。

シュタルク効果

分子や原子に外部電場をかけたときに、量子状態のエネルギーが変化する効果。電場によりエネルギー準位を変化させられるため、量子系の制御に利用できる。

走査型プローブ顕微鏡

微小な針(プローブ)で試料表面をなぞることにより、試料の凹凸を観察する顕微鏡のこと。細胞や高分子などマイクロメートルから分子や原子などナノメートルの構造を観察するのに用いられる。プローブの種類やなぞり方を工夫することで、試料の硬さや磁力といった物性を観察できるものもある。代表的なものにSTMや原子間力顕微鏡(AFM)がある。

フォトルミネッセンス(PL)分光

物質に光を照射して励起し、励起状態から発せられる光を検出することで、物質の光学的性質を調べる計測手法。PLはPhotoluminescenceの略。

近接場光

金属微細構造の電子の振動に伴って、金属微細構造のごく近傍(ナノスケールの近さ)には強い電磁場が生じる。この電磁場は近接場光や伝播しない光と呼ばれ、空間的には伝播せず局在しているものの、振動する電磁場であるという点では伝播する光と似た性質を持つ。

フタロシアニン(H2Pc)

四つのフタル酸イミドが窒素原子で架橋された構造を持つ環状化合物で、鮮明な青色を呈する。

分子振動・分子振動モード

分子を構成する原子の運動。原子数で決まる数の固有振動モード(分子振動モード)があり、一般に分子振動エネルギーはmeV~数100meVを持つ。各分子振動モードでは原子の運動の仕方が異なり、構成する原子の種類や重さによって異なる振動エネルギーを持つ。

共鳴エネルギーシフト

量子状態エネルギーの変化によって、分子共鳴のエネルギーが変化すること。ここではシュタルク効果で生じる共鳴エネルギーシフトを観測した。

振動スペクトル

分子振動モードの情報を得るためのスペクトル。ここでは、PLスペクトルのうち、照射レーザーよりも低いエネルギー領域に注目することで振動スペクトルを取得した。

第一原理計算

物質に含まれる原子の種類や数、配置を指定し、量子力学に基づいて電子状態を計算し、物質の構造や性質を調べることができる理論的手法。

反転対称性

物質が持つ対称性の一種。物質を構成する全ての原子をある点に対して反対の位置に移したとき、それが元の物質と同じになる場合に、その物質は反転対称性を持つ。

双極子相互作用

物質中の電荷の偏り(分極)によるクーロン相互作用の一種。励起状態における二つの分子の間の双極子相互作用は、二つの分子の励起エネルギーが一致している場合に最大化する。

共鳴エネルギー移動

共鳴現象を通じて、異なる分子や原子、イオンの間でエネルギーが交換する現象。光合成や有機発光デバイスの動作原理で重要となる現象。

時空間分解分光

時間と空間の両方で高い分解能を持つ分光手法。物質系で生じるダイナミックな現象を詳細に調べる際に用いられる。