細胞のように表と裏が非対称な脂質膜でのリン脂質のフリップフロップの観測にはじめて成功

細胞のように表と裏が非対称な脂質膜でのリン脂質のフリップフロップの観測にはじめて成功

細胞の内外の情報伝達を担う細胞膜の性質の解明に一歩前進

2023-10-3自然科学系
理学研究科教授村田道雄

研究成果のポイント

  • 脂質二重層を構成する脂質分子について、膜の内側と外側にいるものを区別して観測する手法を開発しました。
  • リン脂質が、脂質二重層の外側から内側へ転移するフリップフロップの速度は、これまで知られている値よりも数倍以上遅いことがわかりました。
  • 細胞膜のように脂質二重層の表と裏が違う脂質である場合は、フリップフロップの速度に違いがでることがわかりました。

概要

鳥取大学学術研究院工学系部門の花島慎弥教授(研究当時:大阪大学理学研究科)の研究グループは、大阪大学大学院理学研究科の村田道雄教授、安田智一特任助教(常勤)(研究当時)と渡辺宏史さん(博士後期課程3年)らとの共同研究で、脂質二重層中のリン脂質が外側から内側へとひっくり返る現象(フリップフロップと呼ばれる)を、経時的に観測することに成功しました(図1、2)。ここから得られたフリップフロップの速度は、これまで知られてきた値より2倍から5倍程度遅いことがわかりました。さらに、細胞膜のように表と裏の膜葉の脂質の種類が異なる表裏非対称なリポソームを調製して詳しく解析した結果、それぞれの単一成分からなるリポソームとはフリップフロップ速度が異なりました。表から裏のフリップは速くなり、裏から表へのフロップは遅くなることがわかりました。一般に、細胞膜の表裏脂質の非対称性はフリッパーゼやフロッパーゼと呼ばれる膜タンパク質により恒常的に維持されていると考えられています。本研究の結果は、細胞から分泌されるエクソソームなどの細胞間情報伝達を担う微小な小胞体において、これらの酵素活性が低下している場合でも、分泌から数日間は細胞膜表裏の非対称性を維持していることを示唆しています。

タンパク質は、さまざまな薬物の標的になっており研究も進んできていますが、その周囲を取り囲む脂質はこれまで単なる媒質と考えられてきたこともあり、その研究は遅れています細胞膜を構成する。脂質の性質はまだまだよくわかっていない点が多く残されています。本研究は、細胞の内外の情報伝達を担う細胞膜の性質の理解に一歩前進するような成果といえます。

本成果は2023年9月20日(日本時間)に米国化学会発行の学術誌「Langmuir」に掲載されました。

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図1. 脂質二重層の単純化モデルとリン脂質のフリップフロップ。青と赤の丸はそれぞれ異なるリン脂質の頭部を表す

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図2. 核磁気共鳴装置を用いた細胞膜表裏の非対称性の経時変化観測のイメージ図

研究の背景

細胞膜を構成する脂質二重層は、脂質の種類により外葉に分布するか内葉に分布するかが厳密にきまっています。この膜の表裏の「非対称性」は、それぞれの脂質が生合成されて、オルガネラから細胞膜への輸送される時点では定まっています。熱力学的な観点では、非対称の状態が解消されて表と裏の膜葉の脂質組成が等しくなる方向に平衡が進みますが、細胞膜には脂質の膜葉間を転移したリン脂質を元にもどす酵素が存在して、この作用で脂質膜の非対称性は恒常的に維持されます。このような、熱力学的なリン脂質のフリップフロップは、これまで主に表と裏の脂質組成が等しい対称膜を用いられてきたため、細胞膜のような非対称膜が熱力学的にどの程度不安定で脂質のフリップフロップを促進するか、よくわかっていませんでした。

リン脂質の小葉特異的分布およびフリップフロップを観測するために、これまで蛍光分子を脂質に結合させたプローブがよく使用されてきました。このような蛍光リン脂質分子を用いたリン脂質の速度定数 (k)は、ホスファチジルコリンの二重層では 10-3 ~ 10-5 s-1 程度であると報告されています。この速度定数は、数分から数時間の半減期に相当します。しかしながら、嵩高い疎水性蛍光団は脂質の固有の挙動を変化させることがあります。これと対照的に、分子動力学シミュレーションで得られる値ははるかに遅く、10-6 から 10-7 s-1の範囲であると報告されています。これは半日から数日の半減期に相当します。この実験と計算の時間スケールのギャップを埋めるためには、蛍光分子で修飾されていない、リン脂質分子そのもののフリップフロップを観測することが急務でした。

研究の内容

スフィンゴミエリンとホスファチジルコリンは、同じコリン基を頭部に有し、細胞膜の主要なリン脂質です。前者は細胞膜の外葉に、後者は内葉と外葉の両方に存在します。また、コレステロールは細胞膜に必須な脂質です。私たちはまず、ホスファチジルコリンのみで構成された脂質二重層から成るリポソームを作成し、固体MAS-1H-NMRを測定したところ、リン脂質頭部の信号を一つ観測しました(図3)。次に、プラセオジム (Pr3+)イオンを脂質膜の外液に入れると、二本の信号が観測されました。これはPr3+イオンの常磁性ランタニド誘起化学シフトが、外葉選択的に起こっていることを示しています。このように、Pr3+イオンを添加することで、外葉と内葉に存在するリン脂質頭部のNMR信号をそれぞれ区別して観測することに成功しました。

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図3. MAS-1H-NMRによる対称膜における外葉と内葉の区別 a:リン脂質の化学構造 b,c :Pr3+非存在下と存在下で、MAS-1H-NMRピークの信号の形が変わり、外葉と内葉それぞれに存在するリン脂質の信号を区別できる。

次に、一方の小葉に存在するホスファチジルコリンまたはスフィンゴミエリンの頭部を重水素(2H)で標識した特殊なリポソームを作成しました。内葉に存在するホスファチジルコリンの頭部を2Hで標識した特殊なリポソームを作成し、固体MAS-1H-NMRで観測すると、共鳴周波数の異なる2Hで標識した内葉由来の脂質頭部は観測されないので、1Hを頭部に有する脂質のみが見えます。このような特殊なリポソームを使うことで、はじめの時点で外葉に存在したリン脂質が、時間経過とともに徐々にフリップフロップをして、反対側の膜葉に分布していく過程を観測できるようになりました。

そこで、スフィンゴミエリンまたはホスファチジルコリンとコレステロールからできた脂質膜(PSMouter/γ-d9-PSMinner/Choまたはγ-d9-DOPCouter/DOPCinner/Cho)を調製して、この方法を用いリン脂質のフリップフロップを経時的に観測し、その速度を算出しました(図4)。その結果、半減期がホスファチジルコリンでは半日、スフィンゴミエリンでは数日程度かかることがわかりました。これらの値は蛍光脂質を用いた実験により求められ、教科書等でも用いられている値とは異なり、リン脂質のフリップフロップ速度はこれまで考えられているよりかなり遅いことを明らかにしました。さらに、細胞膜を模した、外葉がスフィンゴミエリンで内葉がホスファチジルコリンである表と裏の脂質組成が非対称な脂質膜(PSMouter/γ-d9-DOPCinner/Choまたはγ-d9-PSMouter/DOPCinner/Cho)では、外葉から内葉へ転移する速度は遅くなった一方で、内葉から外葉への転移速度は対称膜と差が小さいことがわかりました。これは、脂質膜が細胞膜のような非対称性を有する場合は、リン脂質の種類ごとに対称膜とは物性が異なることを示しています。

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図4. 対称膜、非対称膜での半減期の比較とフリップフロップ速度

今後の展開

今回の成果は、脂質二重層の外側と内側の脂質が異なる非対称な膜では、脂質分子同士の膜葉間での絡まりあい具合の違いがフリップフロップ速度に影響を与えることを示した初めての例だと考えています。今回開発した実験手法をさまざまな脂質組成の系で行うことで、他の脂質の自発的なフリップフロップ速度も同様に明らかにすることができます。さらに、今回開発した手法をエクソソームなどの生体膜に応用することで、生体膜の非対称性の保持の度合いも明らかにすることができます。しかし、今回の手法にはまだいくつか問題点があります。今後の研究で問題点を解決すれば、フリッパーゼやスクランブラーゼなどの酵素を媒介するリン脂質の細胞膜上でのフリップフロップ速度を正確に求めることもできるようになるかもしれません。

特記事項

【論文情報】
タイトル: Passive translocation of phospholipids in asymmetric model membranes: Solid-state 1H NMR characterization of flip-flop kinetics using deuterated sphingomyelin and phosphatidylcholine
著者名:Hirofumi Watanabe, Shinya Hanashima*, Yo Yano, Tomokazu Yasuda, Michio Murata*
*共責任著者
掲載誌:Langmuir
DOI: 10.1021/acs.langmuir.3c01650

本研究は、日本学術振興会(JSPS)科研費(19K05713、21H04707、23K17993、23K17373)、科学技術振興機構(JST)CREST(JPMJCR18H2、研究代表者:花島慎弥)などによる支援を受けて行われました。

用語説明

スフィンゴミエリン

哺乳動物の主要なスフィンゴ脂質のひとつ。セラミド脂質とホスホコリンの頭部からなる。スフィンゴ脂質の名称はスフィンクスから来ているらしい。

ホスファチジルコリン

哺乳動物の主要なグリセロリン脂質のひとつ。脂肪酸鎖が2本グリセロールに結合したジアシルグリセロールとホスホコリンの頭部からなる。ホスホコリン頭部の構造はスフィンゴミエリンと同一である。

固体MAS-1H NMR

NMRは分子の構造を調べる分光学的な方法の一つ。主に溶液サンプルを測定するが、固体試料に適用したものが固体NMRと呼ばれる。固体1H NMRでは、通常広幅な信号を与え信号解析がしばしば困難となる。そこで、固体サンプルをマジック角と呼ばれる決まった確度で高速回転することで(MASと呼ばれる)、NMR信号を先鋭化し、解析できるようにする。

プラセオジム (praseodymium)

原子番号59番。ランタニドの3番目の元素。常磁性を有する。

常磁性ランタニド誘起化学シフト

常磁性金属がNMRで検出可能な各種の近傍に存在すると、NMRの化学シフトが各種とランタニドの距離に依存してシフト変化する現象。