実験×計算で紐解く生命のダイナミクス
メタバースに拓く新たな生命科学研究
蛋白質研究所 教授 岡田眞里子
遺伝子に同じ異常をもつ人は、必ず、同じ種類の病気を発症するのだろうか。答えは「No」だ。 では、病気の発症や細胞の運命を決めているのは何か。蛋白質研究所の岡田眞里子教授は、生命の最小単位である「細胞」を、個々の遺伝子の機能体としてだけでなく、「遺伝子の相互作用のネットワーク」と捉え、数理モデルを駆使して生命の理解に挑む。かつて実験手法が中心だった細胞内シグナル伝達分野に数理モデルを導入し、異分野融合研究へと変貌させた。 その岡田教授が、デジタルツインとメタバース(インターネット上の仮想空間)を組み合わせ、未来の疾患研究を目指し新たな研究領域に乗り出す。
「かたち」と「組み合わせ」 完成形の相関をひもとく
「同じおもちゃのブロックをつかっても、パーツの形や組み合わせで、全く異なる怪獣や建物ができます」。岡田教授は、細胞の運命制御のメカニズムの複雑さをこう例える。
細胞の表面には外部からの環境因子(ホルモンや神経伝達物質など)と結び付くタンパク質でできた受容体が多数ある。この結合で、細胞内の遺伝子に外部の環境情報が伝えられ、細胞は自身の増殖や細胞死などの運命を決定する。このシステム全体をシグナル伝達系といい、細胞内の情報処理の司令塔として働く。ここに異常が起こると、情報処理がうまくいかず、がんなどの疾患を発症する。
がん細胞の増殖に関わるシグナルの異常はある程度特定されているが、その異常を持つ人が必ず同じタイプのがんを発症し、同様の経過をたどるとは限らない。生活習慣や環境、たくさんの別の遺伝子の存在が大いに関係するからだ。ブロックの例で言えば、定形のパーツの中に異なるパーツが紛れ込むと、完成形は大きく変わってしまう。岡田教授の研究はいわば、完成形がどんなパーツで構成され、組み合わさり、大きく見かけが変わったのか、相互の働きを整理し明らかにするものだ。ただ、相手は小さな宇宙と言われる細胞の世界。実験観察だけでは知りえない部分を数理モデルによって解明していく。
「遺伝子一つだけが病気の原因なら、統計で原因や予後をある程度予測できる。でも、因子が多くなると数理モデルなど別の方法が必要になる」と説明する。
モデルを公開し精度を高める
酵素はある特定の物質だけを認識して、大きな化学変化を起こす特異性認識機構をもつ。学生時代にその仕組みに惹かれた岡田教授は大学院で酵素学を専攻。修了後、デンマークの製薬会社、米国の大学で引き続き酵素をテーマに研究した。
2000年に帰国後、理化学研究所(理研)の研究員時代に、実験と数理モデルを組み合わせた遺伝子ネットワークの解析を開始した。今につながるシステム生物学との出会いだ。「ちょうど、理研ではヒトゲノム(遺伝情報の全体)の解析が進行中で、ヒトの全遺伝子の役割が判明しつつあった。でも、遺伝子個々の情報だけでは、生きている生物の複雑性を解明できないと思った。それを知るには遺伝子をネットワークとして考え、時間変化を表現する数理モデルを使うことが必要だと考えた」という。
00年に実質3人ほどのチームで研究に着手し、03年には日本初のがんのシグナル伝達を対象とした実験・数理融合型の論文を発表。「当時、日本では『システム生物学って何?』『そんな小さい系をゲノムの研究所でやってどうするの?』と少し冷ややかな見方が多かった。プレッシャーの中、短期間でよくやったなぁ」と振り返る。他にも、14年の論文では「閾値(しきいち)応答機構」という免疫細胞の働きのメカニズムに迫った。この成果は、COVID-19などのデータ解析にも応用された。
現在は、AIを組み合わせるなどして数理モデルの精度向上を図る。岡田教授は「発表したモデルは、海外の研究者らがブラッシュアップしてどんどん精度が高まっている。我々のモデルは、製薬会社の創薬研究などでも使われている。オープンサイエンスを地で行っている」と胸を張る。
デジタルツインで次世代の生命科学研究を
細胞に起きる現象を解明した先の「果実」は何か。答えを提示すべく大阪大学は22年12月、「ヒューマン・メタバース疾患研究拠点」を開設。人間のiPS細胞(人工多能性幹細胞)からオルガノイド(ミニチュア臓器)を作り、病気の発症過程を再現・計測する。得られた実験データと臨床データなどを統合し、モデル(バイオデジタルツイン)を構築、発症メカニズムを解明する。学内の医学、生物学、情報科学、物理学などの研究者が参画するほか、国内外の研究機関とも連携する。同拠点は文部科学省の世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)に採択された。拠点長は医学系研究科の西田幸二教授が務める。
副拠点長に就任した岡田教授の研究は、デジタルツインの構築につながる。生命現象や病気発症をデジタルで再現、メカニズム解明を行い、分子標的薬などを開発する際、有効性の検証などでの貢献を目指す。「遺伝子のネットワークは一人一人異なる。それをデジタルで再現し、どんな薬が有効かを調べる。最終的にはオーダーメード医療のような、創薬につなげたい」という。では、デジタルツインをメタバースで展開する狙いは?「個人的な期待だけれど」と前置きし、「メタバースでなら、自分の遺伝子や疾患データ以外に、例えば、多くの薬の情報などと融合し、計算機上で、効き目をその場でテストできるようになるかもしれない。病気になり医師から説明を受ける際、薬の効果や副作用などの情報を患者が共有しやすくなる。患者はより知りたい点について理解が深まるのではないか」と話す。
メタバースもデジタルツインもまだ緒に就いたばかりの技術だ。「自分が納得する成果を出すまで諦めない」という信条で、見えない仕組みを捉えてきた岡田教授。仮想空間を舞台に新たな生命科学へ挑む。
岡田教授にとって研究とは?
未開の地への探検。 ラボのメンバーや共同研究者は、一緒にサバイバルしてくれる仲間です。
◆プロフィール
1988年東京農工大学連合農学研究科修了、博士(農学)。同年ノボ・ノルディクスバイオインダストリー研究員などを経て2000年理化学研究所ゲノム科学総合研究センター研究員。理研免疫アレルギー科学総合研究センターチームリーダーや京都大学化学研究所客員教授などを歴任。16年大阪大学蛋白質研究所教授。22年4月蛋白質研究所所長。
■参考URL
大阪大学ヒューマンメタバース疾患研究拠点 Osaka University, WPI Premium Research Institute for Human Metaverse Medicine (WPI-PRIMe)
メタバースを用いた医学研究で人類の壮大な目標「すべての病気の克服」に挑む
Taking on an unending challenge: “conquering all diseases” by metaverse-based medical research
大阪大学蛋白質研究所 Institute for Protein Research, Osaka University
タンパク質でミライを変える
CHANGE THE FUTURE WITH PROTEINS.
(本記事は、2023年2月発行の大阪大学NewsLetter88号に掲載されたものです。)
(2022年12月取材)