産声をあげた感染症の経済学
混沌とする社会に射す希望の光
大阪大学栄誉教授/感染症総合教育研究拠点 特任教授(常勤) 大竹文雄
私たち社会は悩みながらも、前へと踏み出してきた。 感染症は、私たち社会にいくつもの課題を突き付ける。例えば「人と人とが交流する経済・社会の活動と感染症対策とをどう並立させるのか」も、その一つ。この答えの見えない課題に、経済学者たちが光を灯そうとしている。 「いのち」を守るため、感染症を完全に抑え込もうとすれば、交流を伴う活動は止めざるを得ない。それが中長期に及べば「くらし」の破綻につながってしまう。「いのち」と「くらし」、その両方を守るために、いつ何をすべきなのか? 2021年4月に大阪大学感染症総合教育研究拠点に移籍し、経済学者として感染症に立ち向かう大竹文雄特任教授(常勤)(以下、大竹教授)に、感染症と経済の関係、この1年で私たち社会が学んだこと、将来に繋がる取組を聞いた。
研究者は誰かの役にたちたい
COVID-19に対するワクチンや有効な治療法がなかった2020年前期は、感染を抑えるために「経済を止める」という方策しか取れなかった。しかし医療体制の拡充、治療法の確立、ワクチンの開発で、感染と経済活動のトレードオフを議論できる状況になってきた。
大竹教授は当時を振り返り「2020年の当初から、世界中の研究者が分野に限らず、感染症の社会に有効であろうことを考え、自発的に取り組んだ。感染予測のシミュレーションをしたり、新型コロナウイルスについて個人のWebページで解説したり。経済学分野でも同様です。研究者って誰かの役に立ちたいんですよね」。ただ、反省も口にする。「専門家会議に参加していて、経済学の研究成果を実際の対策に繋げようにも、どの経済学者が、感染症の問題のどこに関心を寄せ、どんな研究に取り組もうとしているかを把握できていなかった」。
有事に動ける研究者マップ
クラスター班で有名になった感染症を研究する分野は、SARSやMERSが発生した時にできた研究ネットワークをCOVID-19に活かすことができた。しかし、経済学分野では、当時幸運にも日本国内がパンデミックに至らなかったことで感染症と経済に関連する研究は育たなかった。
「研究者のネットワークがあれば、有事の際に必要なデータと分析にすぐに取り掛かることができ、対策に生かすことができる」。この課題意識から、2020年度に日本経済学会の会長だった大竹教授は、同年夏、学会内にコロナワーキングを立ち上げ、感染症に関する経済学研究の内容把握とネットワーク構築に取り組んだ。
毎日変化する感染の動きと経済の関係を分析するために、今まで経済学で用いられてこなかったデータが使われるようになった。経済の動きに即応する指標を見いだすため、POS(販売時点情報管理)やクレジットカード、インターネットの家計簿による消費データ、位置情報を利用した人の流れの把握など瞬時のデータの活用が、急激に進んだ。
今回構築された研究ネットワークは、感染症総合教育研究拠点に大竹教授らが参画したことで、感染症と経済学研究についてのハブ機能を拠点が担い、将来にむけて維持・強化することが可能となった。例えば、拠点のリソースを生かすことで、感染症と経済に関する共同研究を促し、新たな分析手法の開発や、一連の緊急事態宣言などの対策で効果的だったこととそうでなかったことの客観的な検証、民間等との連携、人材育成などに繋げることができる。
一律の「届けメッセージ」からの脱却
刻々と変化する感染状況の中で、社会の人々にメッセージをどう届け対策を実効性のあるものとするか、その難しさも露呈された。「行動変容を」と一言に言っても、年齢や職種、地域など個人の属性によって、受け止め方は異なる。
大竹教授は「政府や自治体がメッセージを出す際に一番効果的なものは何かは状況によって刻々と変わるうえ、出してみないと分からない面もある。十分に事前検証せずに出すと効果がなかったり炎上したりする。では、どうしたらよいか。個人の手元にまでインターネットが普及した時代なので、短いスパンでテストを繰り返し、実際のメッセージを決めるという手法が可能になっている。広く一斉に同じ情報を届けるマスメディアを利用する旧来の方法から脱し、年齢層やグループごとに内容や手段をきめ細かく変えるなど、行政は情報発信のあり方を見直す必要がある」と指摘する。
実際に大竹教授が専門とする行動経済学の研究では、この手法を活用し、40歳以上の男性に対して、風疹のワクチン接種を促進するための有効なメッセージを見いだし、接種率向上に寄与した。COVID-19に対しても、経済学の観点から有効なメッセージを探り、政府の分科会などで提言している。昨年の「ビデオ通話でオンライン帰省」などの呼びかけも、禁止ではなく肯定的に伝える方が効果的だという研究成果が反映された。
経験は糧となる
残念ながら、まだしばらく感染症との闘いは続くだろう。ワクチンの登場によって光は射しているが、デルタ株やラムダ株といった感染力の強い変異株の出現などで未だに収束の兆しは見えない。
私たちは耐えるしかないのだろうか。大竹教授は、行動経済学の知見から前向きに暮らすためのヒントをくれた。「閉塞感が続くとモチベーションを上げるのが難しいですよね。例えば勉強やダイエットなど目標を達成したいときには、スケジュール帳に『●月〇日■時に〇をする』と具体的に書くといい。人間は楽がしたい生きもの。いざやろうとしても、何をするかから考えると面倒なので、つい先送りしてしまう。自分の背中を押してくれるものがあると行動につながりやすくなる。ワクチン接種などもそう」。
大竹教授が研究で大事にしていることは「謎を見つけること」だという。そして、その謎を解くことに全力を傾ける。謎ばかりのコロナ禍に、感染症の経済学が産声をあげた。明けない夜はない。いま私たち社会が体験している辛い経験は、研究者らの手によって必ず将来への糧となる。
●大竹文雄(おおたけふみお)
大阪大学感染症総合教育研究拠点 特任教授(常勤)/栄誉教授
1983年京都大学経済学部卒、85年大阪大学大学院経済学研究科博士前期課程修了、同年大阪大学経済学部助手。社会経済研究所教授、理事・副学長などを経て、2018年4月から同大学院経済学研究科教授。2021年4月から現職。博士(経済学)。
政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会メンバーも務める。著書に「行動経済学の使い方」(岩波新書)など多数。専門は行動経済学、労働経済学。
(本記事の内容は、2021年9月大阪大学NewsLetterに掲載されたものです )
(2021年7月取材)