遺伝子という絵の具で 網膜の発生経路を明らかに
「生命の森の中、葉っぱの一枚一枚を描く」
蛋白質研究所・教授・古川貴久
古川貴久教授は、一貫して網膜の発生と機能の研究を続けてきた。 視細胞がいかにして生まれ、分化し、成熟して機能を発揮するのかというメカニズムの主要部分を分子レベルで解明し、今年度の第30回大阪科学賞を受賞した。 緻密な研究に没頭するとともに、「研究者にはロマンを持ってほしい」と若手に熱く語りかける。 また医師としての自覚も持ちながら、病気との関わりを常に模索して原因遺伝子の発見に努めるとともに、全国各地の市民講演で患者たちに「研究、医療は日進月歩しています。希望を失わないでください」と訴える。
教科書を書き換える発見
網膜における明暗の認識はどんなイオンチャンネルで行われているのか20年来の謎であったが、古川教授のグループはONの経路がどのように分子レベルで機能しているかについての一連のメカニズムを解明するとともに、その機能中心を担うTRPM1チャンネルの変異が先天性夜盲症の原因にもなっていることを報告。これらの業績は、生理学の教科書を書き換えるほど画期的なものだった。(図1)
古川教授は、1988年の大学院生活のスタートにおいて、分子生物学の研究を開始。生命分化メカニズムの神秘を遺伝子レベルで究めたいと考えたからだ。その前年の87年、米国ハーバード大学のセプコ教授が、いろんな神経細胞が共通前駆細胞から分化してくることを、雑誌「ネイチャー」で発表していた。そのおもしろさに魅せられて、後にこのセプコ教授のもとに留学することになる。
「患者さん、希望を失わないで」
中枢神経の中でも、外界に接していることから「アクセスできる脳」と呼ばれる網膜に注目した(図2)。「網膜の発生過程がきちんと分かれば、脳にも応用できるでしょう」。視細胞を制御すると推測されるさまざまな転写因子を特定している。
視細胞の分化・成熟のマスター遺伝子といえる「Crx」を発見し、その変異が、網膜色素変性症の原因遺伝子になっていることを解明。この発見が、視覚科学分野の遺伝子レベルでの研究の飛躍的な発展につながり、再生医療では視細胞を誘導する重要なマーカーとしても使われている。
これらの成果をもとに、網膜色素変性症の患者らが作る団体などを対象に講演活動も行う。「現在の研究内容や、研究の見通しをお話しすることで、何らかの希望や安心感を与えられれば」と語る。
古川貴久教授 インタビュー — 人類の中で 最初に知る喜び
大阪科学賞を受賞
─大阪科学賞受賞の研究内容と経緯をお話しください。
1個の受精卵から分化・成熟して複雑な身体、高度な神経機能を持つよう、DNA上でプログラムされています。かつて、ヒトやマウスの遺伝子は10万個以上と言われていましたが、 21世紀に入ってゲノム解析により、2万2000個ほどしかないことが分かりました。複雑な成長過程が、わずか2万2000個のDNAでどうやって導かれているのかを解明するのが、私の研究です。
米国に留学中には、「直接DNAに結合して働くプログラム制御の転写因子が重要だ」と推測して、さまざまな因子を見つけにいきました。中でも、眼を作る最上流の因子「Rax」を特定できたことは大きいです。また、Crxなども含めた転写因子の、網膜を作るところから分化・成熟するまでの機能連鎖(カスケード)機構や、視細胞を運命づけているメカニズムも解明できました。
ユニークな命名「ピカチュリン」
─業績もさることながら、命名のユニークさでも注目されていますね。
神経回路を作る視細胞が、どのようにして双極細胞(2次ニューロン)につながるのかが分かっていなかったのですが、それをつなげるたんぱく質を特定し、「ピカチュリン」と名付けました。光を受けて電気に換える細胞のイメージから、アニメキャラクターの名前を援用したのです。この論文がネイチャー・ニューロサイエンス誌に掲載されるにあたって、表紙にそのキャラクターを載せようと、版権元と交渉したのですが、それは実現しませんでした。
単におもしろがっているのではなく、「日本発の成果」を世界に大きくアピールし、多くの人に覚えてほしい、という思いからです。先のCrxも、視細胞のC(コーン=錐体)、R(ロッド=桿体)に由来させたのですが、直接的には当時、ハーバード大の駐車場に止まっていたHONDAの自動車「CR ─ X」からひらめきました。大阪人としてのサービス精神もどこかにありますね。
生物は 、 本当によくできている
─臨床医を志して医学部に入り、結果的に研究の道に進まれましたね。
医学部で研究室に出入りしているうちに、そのおもしろさにとりつかれていきました。「最初のクエスチョンが自分のクエスチョンである」として、原理を明らかにすることが基本姿勢。その発展として、病気の原因究明や再生医療につながればいいですね。健康や命に密接に関わる自然科学の中で、ユニバーサルに、根本において、多くの人々に貢献したい。研究成果を、自分が人類の中で一番最初に知ることができる、それも大きな魅力です。
手法において、理論や法則を追求するアプローチもありますが、私は実験を積み上げていきたい。例えれば、「生命の森」を理解するのに、微分や積分などを使って木のパターン法則を極めるという手法に対し、私は一枚一枚の葉っぱを丹念に描いていきたい。「網膜という木」をこうして完成させるのが、私の道です。
でも、やればやるほど、分からないことがどんどん出てきます。たとえば、網膜の一つ一つの細胞は、自分が全体の中でどういう状態であるのか分からないはずなのに、どうして調和的に成長していけるのかは大きな不思議です。「よくもまあ、こんな回路形成ができるものだ」と感心し、「生物というのは、内なる宇宙。本当によく出来ている」と再認識する日々です。この面白さを若い学生や研究者に感じてもらえるよう、つなげていければと思っています。
(本記事の内容は、2012年12月大阪大学NewsLetterに掲載されたものです)