非熱的な超高速スピンスイッチング動作の発見
光による物性制御の新原理
概要
京都大学化学研究所の廣理英基 准教授、章振亜 博士研究員、金光義彦 特任教授、丸山慶 修士課程学生(研究当時)、千葉大学大学院理学研究院の佐藤正寬 教授、金賀穂 博士課程学生、大阪大学レーザー科学研究所の中嶋誠 准教授、東京大学物性研究所の栗原貴之 助教、東海大学工学部の立崎武弘 講師らの研究グループは、物質内部でテラヘルツ(THz)波の磁場強度を増強させ、スピンの方向を約1兆分の1秒の時間内に変化させる方法を発見しました。近年、THz周波数帯にスピン歳差運動を持つ反強磁性体は、強磁性体よりも高速なスピンデバイスへの応用が期待されており、そのスピンダイナミクスは精力的に研究されています。しかし、従来の可視光やTHz波によるスピンの励起手法では長寿命の加熱効果が生じるため、高速なスピン制御が困難でした。本研究では、反強磁性体Sm0.7Er0.3FeO3表面に作製した金属メタマテリアル構造を利用して1テスラを超えるTHz磁場を印加すると、瞬間的に反強磁性体のスピンの方向を変化させられることを発見しました。そして、THz磁場によりスピンが受ける磁気的エネルギーの時間周期的な変調効果が、高速スピンスイッチングの駆動力であることを明らかにしました。今回の成果は、光による物性制御に関する理解を深化させ、高速な磁気デバイスや光デバイス開発に向けた基盤技術となることが期待されます。
研究成果は、2024年10月25日に国際学術誌「Nature Materials」にオンライン掲載されました。
図:THz波の照射により磁気的エネルギーが変調し、それを駆動力としてスピンの方向が変化する様子を示す概念図。
研究の背景
情報通信機器が扱う膨大な情報量に伴い情報処理・通信速度の更なる向上が必要であり、従来のGHz(~109 Hz)を超えてポスト5Gと呼ばれる通信周波数であるテラヘルツ波帯域(~1012 Hz)を用いた高速な通信技術の構築が求められています。一方で、スピントロニクスによる情報ストレージ・情報通信関連技術は、情報ストレージや不揮発性メモリにおける低消費電力化・高密度化に大いに貢献し、デジタル情報化社会を支える技術となることが期待されています。スピントロニクス材料として、反強磁性体はそのスピン集団運動モードがテラヘルツ(THz)波帯域に達し、THz波による反強磁性体のスピン制御が注目を集めています。しかし、従来の可視光やTHz波によるスピンの励起方法では、長寿命の加熱効果が生じるため、高速なスピン制御が困難でした。
研究の内容
本研究では、これまでに実現した世界最高強度のTHz波発生技術と、独自に考案したメタマテリアル金属マイクロ共振器(金属メタマテリアル)を融合することにより、反強磁性体試料Sm0.7Er0.3FeO3内部に1テスラを超える高強度THz磁場パルスを実現しました。この物質は室温付近(310 K)でスピン再配列転移を示し、それより高温側では巨視的磁化(秩序変数)が異なる2つの方向に向いた安定な状態が存在します。実験では、サンプル温度を高温側の311 Kに設定し、試料に対して面直方向にTHz磁場パルスを印加することで、強磁性モード(FM、0.05 THz)と反強磁性モード(AFM、0.55 THz)の振動を観測しました。反強磁性体を含む磁性体においてTHz波により駆動されるスピン運動は、一般に巨視的磁化の変化として記述され、光の偏光の変化として観測できます。THz磁場強度が1テスラを超えると、偏光変化の時間波形に長寿命のオフセット成分が現れ、磁場強度に対して急峻な依存性を観測しました。この閾値応答は、初期の安定状態とは異なるもう一つの状態にスピンの向き(巨視的磁化の向き)が変化したことを示しています。
磁化ダイナミクスの強度依存性と温度依存性を観測し、これら測定結果がLandau–Lifshitz–Gilbert(LLG)方程式から導出したsine-Gordon方程式によって統一的・定量的に説明できることを示しました。この解析により、THz振動磁場によりAFMモードが励起され、さらにAFMモードとFMモードとの結合効果が、磁気的エネルギーの動的な変調をもたらすことを示しました。これにより、スピンスイッチングを引き起こすFMモード(0.05 THz)に対して非共鳴的なTHz磁場(0.46 THz)を印加しているにもかかわらずFMモードが強く励起され、磁化は磁気ポテンシャル障壁から遠ざかる方向に運動して高いエネルギーを獲得します。そして、THz磁場パルスが消えるとポテンシャルの変調・変化も消滅し、磁化は慣性効果によって障壁を超えてスイッチングすることを明らかにしました。
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
本研究は、THz磁場パルスにより、試料を加熱することなく(非熱的に)超高速でスピンの方向制御が可能であることを示しました。今回観測した新たなTHz波に対するスピン応答はスピントロニクスに新たな動作原理を提供し、次世代のテラヘルツ基盤技術を創出すると期待されます。また、THz磁場パルスは様々な量子スピン系への応用が可能であり、基礎研究に新たな実験方法を提供します。
特記事項
【論文情報】
タイトル:Spin switching in Sm0.7Er0.3FeO3 triggered by terahertz magnetic-field pulses (テラヘルツ磁場パルスによるSm0.7Er0.3FeO3のスピンスイッチング)
著 者:Zhenya Zhang, Minoru Kanega, Kei Maruyama, Takayuki Kurihara, Makoto Nakajima, Takehiro Tachizaki, Masahiro Sato, Yoshihiko Kanemitsu, Hideki Hirori
掲 載 誌:Nature Materials
D O I: 10.1038/s41563-024-02034-4
本研究は、下記の助成⾦の⽀援を受けて⾏われました。
JSPS 科研費・特別推進研究(JP19H05465)、新学術領域研究(JP19H05824)、基盤研究B(JP21H01842、JP19H05825、JP20H02206)、JST SPRING(JPMJSP2110、JPMJSP2109)、自然科学研究機構(01212301)、キヤノン財団、京都大学化学研究所・国際共同研究助成(2024-18)
用語説明
- テラヘルツ(THz)波
テラヘルツ波とは光波と電波の中間の周波数帯に位置する電磁波のことである。1テラヘルツは光子のエネルギーにすると約4ミリエレクトロンボルト(meV)、周期にすると1ピコ秒に相当する。
- 反強磁性体
隣り合うスピン(原子磁気モーメント)が反平行に規則正しく配列し、全体の磁化が0、あるいは小さい磁性体のこと。
- メタマテリアル
電磁波(光)の波長よりも小さなミクロ構造が刻まれた物質群。ミクロ構造の形状に依存して、通常の物質とは異なる電磁波応答を発現させられる。
- 磁気的エネルギー
磁性体中のスピンが感じるエネルギーでありスピンの運動を決定する。今回の試料では反強磁性交換相互作用、ジャロシンスキー・守谷相互作用、磁気異方性相互作用からなる。