電子のスピンに基づく新しい「異性体」を提唱

電子のスピンに基づく新しい「異性体」を提唱

スピン状態を色で見分けられる分子を創製

2024-4-25工学系
基礎工学研究科助教五月女光

概要

京都大学大学院工学研究科の清水大貴助教、松田建児教授、大阪大学大学院基礎工学研究科の五月女光助教、宮坂博特任教授の共同研究チームは、ジラジカルと呼ばれる物質が示す2つの電子スピン状態が、色で区別可能な「スピン異性体」として扱いうることを示しました。

本研究は米国現地時間2024年4月8日、米国化学会が発行する学術誌『ACS Central Science』オンライン版に掲載されました。

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研究の背景

化学において「異性体」とは、同じ化学式で表される物質であるものの、原子どうしの繋がり方が異なる場合や、繋がり方は同じでも立体的な形が異なる場合に、それらを異なる物質として区別するための分類です(図1)。身近な例としては、ショ糖(スクロース)・乳糖(ラクトース)・麦芽糖(マルトース)はすべて同じ化学式[C12H22O11]で表される二糖類で、原子の繋がり方(構造)の違いに基づいて異なる性質を示す構造異性体です。

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図1. 一般的な異性体の分類

その一方で、原子の組み合わせや構造が全く同じにも関わらず「異性体」と呼ばれるものがあります。それが「スピン異性体」です。もっとも有名なものとして、水素分子のスピン異性体が知られています(図2)。水素分子は核スピンの状態(↑↑もしくは↑↓)に応じて異なる比熱や熱伝導性を示すことから、それぞれのスピン状態が「異性体」として扱われています。

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図2. 水素分子の核スピン異性体(図中の矢印は核スピンの向きを表す)

すべての原子は中心の核とそれを取り巻く電子から構成されています。水素分子の場合は核のスピンに由来する「核スピン異性体」でしたが、核と同様にスピンの自由度を持つ電子によってスピン異性体を作ることはできるのでしょうか。本研究はこのような発想からスタートしました。

研究手法・成果

今回、本研究チームは「ラジカル」と呼ばれる電子スピンをもった有機物に着目しました。2つのラジカルを適切に連結したジラジカル分子(図3)を合成し、得られた分子の2つの電子スピン状態(↑↓:一重項と↑↑:三重項)がどのような割合で存在するかを調べました。その結果、↑↓と↑↑のスピン状態にある分子の割合は室温付近でほぼ1:1ですが、温度を変えるとその割合が変化することが分かりました(図4)。この割合の変化に合わせてジラジカルの色(スペクトル)がどのように変化するかを調べたところ、2つのスピン状態では大きく異なる色(スペクトル)を示すことが分かりました。すなわち同じ化学式・構造でありながら電子のスピン状態に由来して異なる性質を示す一組の「電子スピン異性体」が得られたことになります。

さらに、適切な色(波長)の光を照射することで片方のスピン状態にある分子だけを励起できることや、光エネルギーを得たあとの分子の挙動がスピン状態によって異なることも見出しました。量子化学計算のサポートにより、ラジカルユニット間の電子交換型の遷移がスピン状態依存的なスペクトルの原因であると結論付けられました。

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図3. 本研究で合成したジラジカル分子

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図4. (左)ジラジカルの2つのスピン状態(↑↑と↑↓)の割合が温度によって変わる様子を示すグラフ
(右)物質の色に対応するスペクトルが温度によって変化していく様子を示すグラフ

波及効果・今後の予定

本研究チームの発表以前にも、様々な「ジラジカル」が報告されています。その中にはおそらく本研究で見出された分子と同様にスピン状態を区別できる分子もあったと考えられますが、これまで見逃されてきました。たしかに、たかだか1 kcal/molに満たないスピン間の相互作用でそれより数桁も大きな光励起エネルギーはほとんど影響を受けないというのは素直な発想かもしれません。本研究ではそのような発想を覆し、たとえ弱い相互作用であってもスピン状態を区別できるほどの違いを生み出す物質を設計できることを実験・理論の両面から示した点に意義があると考えています。

これまでの有機化学では物質の「構造」と「性質」の関係(構造-物性相関)に着目されてきました。本研究では「電子のスピン状態」と「物質の色」の関係に着目しましたが、電子は色以外にも物質の様々な特性や化学反応性に関与しています。本研究をきっかけに、「スピン状態」と物質が示す様々な「性質」の関係(スピン-物性相関)の理解とその活用への道が拓かれることを期待しています。

特記事項

<論文タイトルと著者>
タイトル:“Optically Distinguishable Electronic Spin-isomers of a Stable Organic Diradical”
(光学的に区別可能な安定有機ジラジカルの電子スピン異性体)
著  者:Daiki Shimizu*, Hikaru Sotome, Hiroshi Miyasaka, Kenji Matsuda*
掲 載 誌:ACS Central Science DOI:10.1021/acscentsci.4c00284

本研究は以下の支援を受けて行われました。

・日本学術振興会 科学研究費補助金 基盤研究(B) 19H02788, 21H01888, 21H01889, 23H01948
・日本学術振興会 科学研究費補助金 挑戦的研究(萌芽) 21K18934
・文部科学省 学術変革領域研究(A)「高密度共役の科学」(領域代表:関修平) 20H05866, 20H05868
・文部科学省 学術変革領域研究(A)「メゾヒエラルキーの物質科学」(領域代表:矢貝史樹) 23H04877
・文部科学省 「マテリアル先端リサーチインフラ」事業 JPMXP1222MS1022
・公益財団法人池谷科学技術振興財団 単年度研究助成 0351047-A

用語説明

水素分子のスピン異性体

水素分子(1H2)は2つの水素原子(1H)から成りますが、それぞれの水素原子の中心(原子核)に存在する陽子はスピンと呼ばれる自由度(角運動量)を持ちます。陽子のスピンは2つの状態(↑もしくは↓の記号で表す)を取ることができ、その陽子を2つ含む水素分子では平行(↑↑)もしくは反平行(↑↓)という2つのスピン状態のどちらかを取ることができます。この2つのスピン状態にある水素分子は比熱や熱伝導性といった性質が異なるため、互いに区別することができます。そのため、原子の組み合わせや構造が全く同じにも関わらず、あたかも異なる物質であるかのように「異性体(スピン異性体)」と呼ばれています。スピンが平行(↑↑)の状態がオルト水素、反平行(↑↓)の状態がパラ水素と呼ばれます。

ラジカル

一般的な有機物には偶数個の電子が含まれており、2つずつ対を作っています。電子の対は反対向きのスピンのペアでできるため、普通の有機物では全てのスピンが打ち消し合っています。その一方で、奇数個の電子から成る有機物がラジカルと呼ばれ、対になっていない電子(不対電子)が存在します。ラジカルは不対電子があることで、打ち消されていないスピンが残っていることが特徴です。「ラジカル(radical):過激な」という名前は様々な物質と激しく反応してしまう性質に由来し、そのために材料として取り扱うことは困難でした。しかし近年では、安定に取り扱うことのできるラジカルを設計・合成する様々な知見の集積により、半導体や電池、次世代LED等の機能性材料として注目されている分子群です。