2020年7月31日

暗号をめぐるイタチごっこ

山本教授は「現在の光ファイバーネットワークだと途中で光を抜き取って、第三者が盗聴することができます。情報は暗号化しているから大丈夫と思うかもしれませんが、いま使われている暗号方式では、計算能力が飛躍的に高い量子コンピューターが実現すれば簡単に破ってしまう恐れがある。これでは安心な通信とはいえません」と話す。
暗号の歴史は古い。古代ローマの将軍シーザーの時代にも使われていた暗号は、ときに国家の命運を左右する役割を果たす。それだけに時代とともに高度化・複雑化し、第2次世界大戦では敵国の暗号を破るため、各国は優秀な数学者を動員して解読にしのぎを削った。電子計算機につながる研究の多くも、暗号開発から派生したとされる。しかし暗号が高度化すればするほど、それを破る技術も高度化する。そんな盾と矛とのイタチごっこを人類は繰り返してきたのだ。
インターネットが普及する現代においては、暗号は生活に欠かせないインフラとなった。膨大な個人情報や企業の機密情報、金融情報がネットを通じて飛び交う。金融の世界を一変する可能性を秘めた仮想通貨も、他人が勝手に改ざんできないという信頼があって初めて成立する。
インターネットが経済活動に根差した現代社会では、誰もが扱えて、第三者に破られない暗号が求められている。一方で暗号を複雑なものにすれば、今度は使い勝手が悪くなるというジレンマも。こうした理由から、2020年のいま、通信に用いられている暗号は、実はとてもシンプルだ。「スパコンを使って計算しても、解読するのに何十年もかかる。現実的にはこれで破られることはない」という前提で設計されている。暗号の強さ(複雑さ)は使い勝手と、安全性をはかりにかけて定められているのだ。
だがケタ違いの計算能力を持つコンピュータが出現すれば、その前提が一気に崩れてしまう。「たとえ万能な量子コンピュータが登場しなくても、新しいアルゴリズム(計算法)がでてくれば、解けてしまうかもしれない。解けないという原理的な保障が、今の暗号技術にはないのです」と山本教授。

量子の不思議が究極の安全性をもたらす

将来、途轍もない計算能力をもった万能な量子コンピュータが出現した際に有効な暗号はあるのだろうか。山本教授は「素粒子や原子などミクロの世界を扱う量子力学の性質を使えば、原理的に破れない暗号が可能です」という。
「送りたいメッセージを[0]と[1]のデジタルデータに変換し、それにある乱数を秘密の鍵としてかけてやると、ランダムな数字の列になります。そのランダムな数字の列を送信し、受信者はあらかじめ受け取っていた秘密の鍵を使って元のメッセージに復号します。ランダムな数字の列を第三者が盗み見しても、秘密の鍵を知らなければメッセージの内容は分かりません。ここで問題になるのは、送信者と受信者がどうやって安全に秘密の鍵を共有するかです」
秘密の鍵の運び手として注目されるのが量子である。
電子や原子、光子(光)などは量子と呼ばれ、粒子である一方で波の性質も持つ不思議な存在だ。旧来のニュートン力学では説明できない量子の振る舞いを精密に計算できるようにしたのが、20世紀前半に成立した量子力学である。そして量子力学によると、量子が持つ状態(光子の振動方向や、電子のスピンの向きなど)は、誰かが観測すれば変化してしまうことが明らかになっている。
そのため秘密の鍵を量子に乗せて送れば、途中で盗聴(観測)されれば状態が変化し、必ず痕跡として残る。痕跡の有無を調べれば、秘密の鍵が安全かどうかをチェックできるという仕組みだ。
コンピューターの計算能力との比較で安全性を担保するのではなく、量子力学が間違っていない限り、原理的に安全性が保障される。これまでのイタチごっこに終止符を打つ、究極の暗号通信が可能になる。

世界が開発競争にしのぎ削る

また量子には「量子もつれ(量子エンタングルメント)」や「量子テレポーテーション」という不思議な現象もある。
光子を例に考えれば、一方が縦方向の振動(偏光)の状態なら、もう一方は必ず横方向の状態となるなど強固な結びつきを持つ量子のペアをつくることができる。これをエンタングル(もつれ)した状態と呼ぶ。
そして、もつれ合った量子同士であれば、どんなに離れた場所にあっても、一方の量子状態を観測すれば、他方の量子状態は観測をしなくても決まってしまうという性質がある。つまり一方の量子が持つ状態=情報が、遠く離れた量子に瞬間移動(テレポーテーション)したように見えるのだ。
山本教授は「量子同士がテレパシーでつながっているような、日常感覚では分かりづらい現象です。しかし量子テレポーテーションを利用した中継器(量子中継)でネットワークをつないでやると、現在のインターネットを飛躍的に発展させる安全な通信網が構築できる。それが量子インターネットです」と説明する。
こうした次世代の量子情報技術は産業だけでなく、安全保障にも直結するだけに各国が開発にしのぎを削る。特に中国は2016年に世界初の量子暗号衛星「墨子」を打ち上げたほか、北京―上海間約2000㌔に光ファイバーによる量子暗号通信網を構築するなど、世界を一歩リードしている。「自国の覇権が揺るぎかねない」と危機感を抱いた米国も膨大な予算を投じ、研究を加速させている。日本も量子技術を「国家戦略」と位置付け、2020年代後半の量子暗号衛星打ち上げを計画している。

83_ryoshi_yamamoto_01.jpg

量子インターネットが“あたりまえ”になる日

83_ryoshi_yamamoto_02.jpg量子ネットワークが地球上に張り巡らされたとき、どのような世界が私たちの前に広がるのだろうか。山本教授はこう話す。
「盗聴に対して究極の安全性を持つ量子インターネットが実現すれば、首脳会談や国民投票、金融取引、遺伝情報や生体情報のやりとりが可能になります。現在のネットワークでは、複数の量子コンピュータをつなげても計算能力が大きく向上することはありませんが、量子インターネットなら、量子コンピュータ同士を繋ぐことで極めて膨大なデータの計算を分散して処理することができます。秘匿性を保ったまま高度な計算ができるので、企業の製品開発にも役立つでしょう。原子時計をネットワークで正確に同期できれば、極めて精度の高いナビゲーションシステムに応用できます。望遠鏡に利用して、天文学の発達にも貢献する提案もあります。一方で、犯罪集団に悪用される恐れもある。どのような使い方をするのか、社会全体で考える必要があります。現在のインターネットは1969年に誕生しましたが、当時、『これが、なんの役に立つのだろうか?』という声もあったそうです。しかし、今やなくてはならないインフラです。量子インターネットも、いざ目の前に現れてみると、私たちが考えもしなかった利用のされ方をするかもしれませんね」

83_ryoshi_yamamoto_kenkyu.jpg

●山本 俊(やまもと たかし)
大阪大学 大学院基礎工学研究科/先導的学際研究機構 量子情報・量子生命研究センター 教授
2003年総合研究大学院大学先導科学研究科光科学専攻修了、博士(理学)。同年同大学研究員、04年大阪大学大学院基礎工学研究科特任助手、07年助教、11年准教授、18年10月から現職。
専門は、量子光学、量子情報処理。

この組織の他の研究を見る

Tag Cloud

back to top