究みのStoryZ

失った歯周組織を再生させる薬

普通と思っている生活を、普通に送るための医療を

歯学研究科・教授・村上伸也

「全世界で最も患者が多い病気は歯周病である。地球上を見渡しても、この病気に冒されていない人間は数えるほどしかいない」。ギネスブックにこう書かかれている。軽度のものも含めると、日本でも成人の8割が歯周病にかかっているとされ、中高年以降の人が歯を失う原因のトップである。すぐさま命に関わる病ではないが、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)に大きな影を落としかねない。国民病、いや人類病ともいえる歯周病だが、一度かかると完治させることは難しく、失われた組織を元に戻すことはできないと考えられてきた。だが大阪大学大学院歯学研究科の村上伸也教授(口腔治療学)は世界で初めての歯周組織再生剤を開発、治療効果をあげている。2016年9月には厚生労働省の承認も得られ、保険適用も受けた。これは「リグロス」の名で既に約76000キットが出荷され、歯周病患者さんに使われている。


損なわれた細胞組織の時計を巻き戻す

ところで歯周病で破壊される「歯周組織」とは何を指すのだろうか。
「歯周組織」とは口の中で歯を支える組織のことで、歯肉(歯ぐき)、歯根膜、セメント質、歯槽骨の組織から成っている。歯の根っこ部分の表面を硬いセメント質が覆い、その周りを薄くて柔らかい歯根膜が包む。その外側を硬い歯槽骨がガードし、さらにその外側を歯肉が取り囲むという構造になっている。

歯根膜は0.1~0.2㍉ほどの厚さしかないが、弾力のあるコラーゲンの線維でできており、線維の両端がセメント質と歯槽骨に入り込んで歯をしっかりと固定する役割を担っている。さらに歯根膜には圧力を感じる神経があり、ものを噛んだときに固いか柔らかいかなどの歯ごたえの情報も脳に送っている。
しかし口の中を不潔にしておくと、歯と歯ぐきの境目に数百種類、何億個もの細菌が繁殖し、塊となったものはデンタルプラーク(歯垢)と呼ばれ、歯ぐきが腫れる歯肉炎の原因となる。さらにひどくなると、歯と歯ぐきの隙間(ポケットとよばれる)がどんどん深くなり、悪玉の細菌がますます繁殖する悪循環に陥る。歯槽骨が溶けてしまうと歯周炎とよばれるようになり、最後は歯の根っこの先端付近まで歯槽骨が溶けて歯がぐらぐらするようになり、ついには抜歯せざるを得なくなってしまうのだ。
村上教授は「歯周病というのは感染症であり、進行性の慢性疾患です。体を鍛えておけばかからないという病気ではありません。普段から口の中を清潔にし、プラークを除去することが予防・治療の本質です。しかしながら、治療して歯周組織の炎症がなくなり、病気の進行が止まったとしても、一度失われた歯槽骨などの歯周組織は元には戻りません。ひとたび失った歯周組織を取り戻すには、時計を巻き戻すための特別な治療が必要であり、その方法が再生療法なのです」と話す。

1990年代に研究をスタート

村上教授が「時計を巻き戻す」治療法の研究に取り組み始めたのは1990年代の前半、米国の国立衛生研究所(NIH)への留学から帰ってきて間もないころだ。従来の歯科治療は、病気になった組織を取り除き、人工の材料で置き換えるというものが主流だった。しかしこのころ、サイトカインと総称されるタンパク質を薬のように使って損傷部位の細胞を活性化し、機能回復を図ろうとする研究が各国で進んでいた。
村上教授は「私たちの体には、損なわれた組織を再生する幹細胞という働き手が、大人になっても存在しています。たとえば大人の親知らずを抜いて歯根膜の細胞を集め、そこから幹細胞だけを選んで集めてやると、その細胞は骨やセメント質を造る細胞に変化します。それを今度は別の環境で育てると、脂肪細胞にもなります。つまり歯根膜の中には、将来さまざまな細胞になり得る赤ちゃんの細胞、未分化の間葉系幹細胞と呼べるものが存在していることが明らかになってきました。しかし私たちはその細胞の可能性を十分に活用できていません。その細胞を上手く刺激してやれば、歯周組織を再生できるのではないか。そう考えて世界中の研究者がチャレンジしていました」と振り返る。
こうした歯科医療における意識変革の流れを受け村上教授らが有力候補として注目したのが、塩基性繊維芽細胞増殖因子(FGF-2)と呼ばれるサイトカインだった。様々な幹細胞やコラーゲンなどを造る細胞などを増殖させるだけでなく、強力に血管新生を誘導する活性を持つことが決め手になった。「たとえ傷を治しても、そこに栄養を確実に供給しなければ組織は再生しない。そのためには血管の新生が不可欠だ」という考えからである。
村上教授らは、この研究に関心を持つ製薬会社の協力を得て、動物実験を試みた。歯周病のビーグル犬にFGF-2を投与した。しばらくたったころ、歯ぐきをめくると、その瞬間、骨ができていることが分かったという。これに勇気を得て、どのような作用機序で組織が再生するのか、薬剤としての安全性はどうか、などを探る地道な検証を重ねていった。

「魔法の水」ではない

そして2001年から臨床応用を目指した治験が始まった。だがそれからが実は茨の道だった。サイトカインを利用して歯周組織を再生させる材料としては「GTR法」や「エムドゲイン」など海外の先行例があった。しかしこれらはすべて「医療機器」に当たり、「医薬品」という範疇の製品ではなかった。
「組織再生をうたう薬というものは、医科も含めてまだありませんでした。医薬品の承認を得ることは、医療機器として承認を得るよりもハードルがずっと高い。私はぜひ再生薬を認めてほしいと思いましたが、前例のないものを承認してもらうのは大変なことでした。『そもそも、こういう薬が要るんですか?』という議論から始まり、『強い副作用があるのでは』という懸念も示された。薬の効能をどう評価するか、患者さんの状態をどう評価するか。さまざまな約束事を、国際的なスタンダードで認めてもらえるよう自分で決めていかねばなりません」
こうした課題を一つ一つクリアし、安全性や有効性を確認する大規模な臨床試験を経て、世界初の歯周組織再生剤「リグロス」が患者さんのもとに届いた。研究を始めて四半世紀が経っていた。
だがこれがゴールではない。「リグロス」はもともと患者さんが持つ幹細胞を活性化させようという薬で、想定しているのは中程度の歯周炎だ。より重症であったり、高齢であるために幹細胞自体が不足しているケースでは十分に力を発揮できない。
そこで現在、研究しているのが、幹細胞そのものを移植する方法だ。
村上教授は「私たちが注目しているのは脂肪組織に由来する幹細胞です。患者さんのおへその横に1㌢ほどメスを入れ、数十㏄の脂肪組織を吸引します。そこから幹細胞を集めて増やして、骨の欠損したところに移植します。まずはその治療法を確立し、重度の歯周炎の方の助けにしたい」という。臨床研究として既に何人かの被験者に移植を行い、良好な結果がでているという。
大きな可能性を秘めた歯周組織再生医療だが、村上教授は「再生剤は決して『魔法の水』ではない」とクギを刺す。なぜならば「従来の歯周病の治療と言うのは、時間とともに斜面を下り落ちるように歯周組織が破壊されるのをなんとか食い止めようとするものです。再生医療は時計の針を少し戻すだけ。治療後に鋼のような歯ぐきや歯槽骨が手に入るわけではありません。油断するといつでも下りだす。しっかりとブラッシングすることが予防や治療の基本」だからだ。
市民向けの講演でいつもお願いすることがある。
「いいきっかけですから、今日、歯ブラシを新しいものに変えてみましょう。然るべきメーカーの然るべき値段のものでけっこうです。1本2〜300円で健康への第一歩を踏み出せますよ」

村上教授にとって研究とは

世界の誰も知らない真実に触れようとする営み 留学中に良い実験結果が出ず、へこんでいたときのこと。夜遅く誰もいない研究室で実験をしていたら、仮設通りのデータがやっと出ました。うれしくて同じ研究室にいた日本人の先生にそのデータを見せると、「今、世界中でこの真実を知っているのは君だけやね」と言ってくれたことが今でも心に残っています。

●村上 伸也(むらかみ しんや)
大阪大学大学院歯学研究科 教授
1984年大阪大学歯学部歯学科卒業、88年同歯学研究科修了、歯学博士。米国国立衛生研究所(NIH)Visiting Fellow、大阪大学歯学部附属病院講師などを経て、2002年より現職。2016年からは、歯学部附属病院長を兼任。

(2019年12月取材)