
イオントラップ量子ビットのクラウド接続を実現
クラウド経由で¹⁷¹Yb⁺イオンを用いた量子ゲート実行に成功
研究成果のポイント
概要
大阪大学量子情報・量子生命研究センター(QIQB)の西孝一郎講師(研究実施当時/現所属: Qubitcore株式会社)、豊田健二教授らの研究グループは、¹⁷¹Yb⁺イオンを用いたイオントラップ量子ビットをクラウド接続により動作させるための技術開発を行い、実際に遠隔から量子ビットを制御するクラウド接続試験を実施しました。本研究では、イオンのロードから状態準備・観測、量子ゲート実行に至るまでの処理を自動化し、クラウド越しに単一量子ビットゲートを実行することに成功しました。
イオントラップ量子ビットをクラウド経由で動作させるためには、イオントラップ装置(図1, 2)、レーザー光源系、制御系、クラウド用のソフトウェア基盤などの、装置からソフトウェアに至るまでの広範な技術要素を一体的に開発する必要があります。これらを全て統合したクラウド利用可能なイオントラップ量子コンピューティング環境の開発について、これまで国内では実現例がありませんでした。
今回、研究グループは、イオンの自動ロードやレーザー位置補正、量子状態操作を統合した制御系を構築することにより、クラウド経由で量子ビットを制御し、安定して量子ゲートを実行できる環境を実現しました。これにより、遠隔から実機のイオントラップ量子ビットを継続的に利用できるクラウド型量子コンピューティング基盤の発展が期待されます。
本成果は、2025年12月2日(火)〜2025年12月4日(木)に開催された第53回量子情報技術研究会 (QIT53, 主催: 電子情報通信学会 量子情報技術特別研究専門委員会) にて、ポスター発表として発表されました。
図1. クラウド接続試験に用いたイオントラップ装置
図2. クラウド接続試験に用いたイオントラップ用真空装置と光学系
研究の背景
量子コンピュータの実現に向け、長いコヒーレンス時間・高いゲート忠実度を持つトラップされたイオンは有望な量子ビット方式として注目されています。世界ではイオンキュー(IonQ)やクオンティニュアム(Quantinuum)などのスタートアップ企業がイオントラップ量子コンピュータの商用機を開発しています。
イオントラップを量子コンピュータとして実際に運用するためには、上記のようなイオンの潜在能力を十分に引き出し、遠隔から安定に利用できる形へと発展させるための多面的な技術開発が不可欠です。そのために、イオントラップ装置そのものの構築、複数波長のレーザー光源系の高度な安定化、イオンの精密な操作のための制御系の開発、さらには量子回路を実現するプログラムをクラウド上で解釈し、実機において実行可能なかたちの命令として送信するためのソフトウェア基盤の整備など、装置からソフトウェアに至るまでの広範な技術要素を一体的に開発する必要があります。これらを全て統合したクラウド利用可能なイオントラップ量子コンピューティング環境の開発は、国内ではこれまで実現例がありませんでした。
大阪大学QIQBの研究グループは、¹⁷¹Yb⁺イオン超微細構造量子ビットの初期化・観測、マイクロ波遷移/短パルスレーザーによるラマン遷移の観測などについて研究開発を進めてきており、今回、この実験系をクラウド接続に対応させることに成功しました。
研究の内容
本研究では、量子コンピュータに用いられる物理系の一つであるイオントラップ量子ビット(¹⁷¹Yb⁺イオン) を用いて、クラウド経由で遠隔操作できる実験システムを構築しました(図1,2)。そのために、量子状態操作に必要な光学系の構築やレーザー周波数の高安定化に加え、イオンの自動ロードやレーザー照射位置の自動調整といった長期安定運転に不可欠な自動化技術を新たに実装しました。
まず、リニアパウルトラップに単一の¹⁷¹Yb⁺イオンを捕獲し、369 nmおよび935 nmレーザーを用いたドップラー冷却、内部状態の初期化および状態観測(SPAM)を行うことで、94%の忠実度で量子ビットの状態準備と読み出しが可能であることを確認しました。
量子状態操作については、マイクロ波によるラビ振動の励起により約25 kHzのラビ周波数を得て、基本的な単一量子ビット操作が実現できることを確認しました。さらに、量子ゲートの高速化や個別イオンへの選択的操作を目指し、355 nmのピコ秒パルスレーザーに位相ロック技術(PLL)を適用することで、ラマン遷移による量子状態操作(ラビ周波数約3 kHz)を確認しました。
システムのクラウド接続に向けては、量子計算用オープンソースソフトウェア「OQTOPUS」をベースに、バックエンドにおいてイオントラップ実験系を接続するためのDeviceGatewayプラグインを開発しました(図3)。これにより、クラウドから送信された量子プログラムが自動的に実験装置へ送られ、イオンの存在確認、状態準備、ゲート操作、状態観測までが一連の流れとして実行可能となりました。また、イオンが消失した場合には自動ロード機能が作動するなど、遠隔環境でも安定に測定を継続できる設計としています。
クラウド経由の動作実証として、単一¹⁷¹Yb⁺イオン量子ビットに対する90度回転ゲートの実行を 1000 回行い、得られた測定結果を解析しました(図4)。測定された確率には光子検出効率の低下に由来する誤差が含まれるものの、クラウド越しに量子ゲートが問題なく実行されることが確認できました。
これらの成果により、イオントラップ量子コンピュータを遠隔から安定に操作できる基盤技術が確立されました。今後、二量子ビットゲートの実装、複数イオン系の操作、量子アルゴリズムの実装等を進めることで、クラウド接続型の量子計算プラットフォームとしての発展が期待されます。
図3. クラウド接続型イオントラップ量子コンピューティングシステムの構成を示す図。図中のプログラム、量子回路、波形は、システムの仕組みを説明するための一例として示したもの。
図4. クラウド接続による単一量子ビットゲート実行例。|0⟩状態を準備したあとに単一量子ビットのブロッホベクトル空間におけるX軸まわりの90度回転を行った後の状態を測定した。測定は1000回行われ、棒グラフの左側は状態|0⟩を得た回数、右側は|1⟩を得た回数を示している。
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
本研究の成果は、イオントラップ量子コンピュータの実現に向けた基盤技術を前進させるものです。これまでイオントラップ方式の量子計算は、長いコヒーレンス時間や高忠実度ゲートを実現できることから有望視されてきましたが、イオントラップ量子ビットを安定的かつ遠隔から運用するための自動化・クラウド化技術は国内では確立していませんでした。本研究では、イオンの捕獲・冷却・状態操作といった基本動作を自動化し、さらにクラウド基盤から指令を送って量子ゲートを実行できる実験環境を構築したことで、イオントラップ量子コンピュータを運用するための実装レベルの技術が示されました。
特に、イオンの自動ロードやレーザー位置の自動補正、常時モニタリング機能などを備えた本システムは、研究者や利用者が装置の細部に直接触れなくとも動作を維持できる点で、従来の実験室内のイオントラップ量子実験とは大きく異なります。これにより、24時間稼働可能な量子コンピューティングプラットフォーム構築へ向けたな重要なステップが実現されました。
さらに、大阪大学QIQBで開発されたオープンソースソフトウェアOQTOPUSをイオントラップ量子ビット系に適用し、クラウド越しに単一量子ビットゲートを実行した点は、国内のイオントラップ量子コンピューティングの研究開発において初期の実証例として大きな価値を持ちます。この仕組みは教育・研究双方での活用可能性が高く、学内外の研究者や学生がクラウド経由で実機にアクセスできるようになることで、量子技術の裾野を広げることにもつながります。
本研究で実現された自動化技術や量子操作技術に加えて、今後二量子ビットゲートの実装、量子アルゴリズムの実装等を進めることにより、本格的なイオントラップ量子コンピュータへと発展させることが可能となります。さらに、本研究で実現された技術は、さまざまな物理現象をイオンによって再現しその仕組みを調べる量子シミュレーションといった、関連する別の応用研究にも活用することができます。
特記事項
本成果は、2025年12月2日(火)〜2025年12月4日(木)に開催された第53回量子情報技術研究会 (QIT53, 主催: 電子情報通信学会 量子情報技術特別研究専門委員会) にて、以下のポスター発表として発表されました。
タイトル:“クラウド接続型イオントラップ量子コンピューティングシステムの構築”
著者:宮西孝一郎, 柏原航太, 藤田悠真, 森俊夫, 束野仁政, 宮永崇史, 三好健文, 根来誠, 豊田健二
本研究は科学技術振興機構(JST)ムーンショット型研究開発事業 目標6 グラント番号JPMJMS2063、JST共創の場形成支援プログラム(COI-NEXT) グラント番号 JPMJPF2014の支援を受けて実施されました。
参考URL
豊田健二教授 研究者総覧
https://rd.iai.osaka-u.ac.jp/ja/af5fe06e86723c72.html
OQTOPUS Project Website
https://oqtopus-team.github.io/
用語説明
- ¹⁷¹Yb⁺イオン
171イッテルビウムイオン、¹⁷¹Yb⁺イオンは、量子ビットとして広く利用されているイオン種の一つで、その内部エネルギー準位構造が量子計算に適した特性を持っています。特に、超微細構造準位と呼ばれる内部エネルギー準位を利用することで、外部磁場などの環境変動に強い量子ビットを構成することができ、長いコヒーレンス時間を実現できます。こうした特性から、世界的に量子コンピュータや量子シミュレーションの実験において用いられているイオン種です。
- イオントラップ
イオントラップとは、電荷を持つ原子や分子(イオン)を電磁場によって空間内の狭い領域に閉じ込めるための装置です。内部の電場・磁場を制御することで、イオンを極低温状態のまま安定に浮遊させることができ、それらのイオンを量子コンピュータのための量子ビットとして利用することができます。代表的な方式として、静電場と交流電場を組み合わせる「パウルトラップ」や、静電場と静磁場を用いる「ペニングトラップ」があります。本研究では、線形パウルトラップと呼ばれる方式を用いて実験を行いました。
- 量子ビット
量子ビット(qubit)は、量子コンピュータにおける情報の最小単位で、従来のコンピュータのビット(0 または 1)に対応します。量子ビットは、量子力学に基づいて「0」と「1」が同時に成り立つ重ね合わせ状態をとることができ、複数の量子ビット同士が強く結びつく量子もつれも利用できます。これらの性質により、従来の計算機では極めて困難な計算を効率的に行う可能性が生まれます。
- クラウド接続
クラウド接続とは、インターネットを通じて遠隔から量子コンピュータや量子デバイスを操作し、計算を実行するための技術を指します。ユーザーは装置の前に立つ必要がなく、クラウド上のインターフェースから量子プログラムを送信するだけで、実機の量子ビットに対する操作や測定を行うことができます。本研究では、OQTOPUS というソフトウェア基盤を用いて、イオンの監視、自動ロード、量子ゲート実行までを一体化した遠隔実験環境を構築しました。これにより、世界中どこからでも実機の¹⁷¹Yb⁺イオンを使った量子操作が可能となり、研究・教育への応用が広がります。
- 量子ゲート
量子ゲートは、量子ビットに対して特定の操作を行い、量子状態を変化させるための基本的な演算要素です。古典コンピュータでの論理ゲート(AND、OR など)に相当しますが、量子ゲートは量子力学の原理に基づき、重ね合わせ状態の回転や、複数量子ビット間の量子もつれ生成といった操作を実行できます。代表的なものに、単一量子ビットを回転させる単一量子ビットゲートや、二量子ビット間の相互作用を利用する二量子ビットゲート(CNOT ゲートなど)があります。本研究では、クラウド越しに単一量子ビットゲートを実行し、遠隔環境で量子状態操作が可能であることを実証しました。
- 量子コンピュータ
量子力学の原理に従って動作する量子ビットを情報の最小単位として計算を行うコンピュータ。従来のコンピュータにはない量子重ね合わせや量子もつれを利用することで、分子中の電子状態などの量子的な振る舞いを効率的にシミュレーションすることや機械学習、素因数分解など、さまざまな問題を高速で解けると期待されています。
参考:
◆大阪大学 究みのStoryZ「量子コンピュータの実用化は2030年?」
https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/story/2023/nl89_research02
◆あなたと量子~“新鋭”のスペシャリテ~
https://resou.osaka-u.ac.jp/ja/feature/specialite_002n
◆量子コンピューターの実用化で、高度な社会問題を解く。実機にアクセス可能、確かな手応えが大阪大学に。
- コヒーレンス時間
コヒーレンス時間とは、量子ビットが重ね合わせや量子もつれといった量子力学的な状態を保てる時間のことです。量子ビットの状態は外部環境からのノイズやパラメターの揺らぎにより乱されやすく、その結果コヒーレンス時間が短くなると、量子計算の途中で情報が失われてしまうというようなことが起こり得ます。逆にコヒーレンス時間が十分に長ければ、長時間にわたって安定した量子操作を行うことが可能になります。そのため、長いコヒーレンス時間は高性能な量子コンピュータの実現にとって不可欠な要素です。イオントラップ方式の量子ビットは、外乱の影響を受けにくく、比較的長いコヒーレンス時間を実現できることから、安定した量子計算に適した方式として注目されています。
- ゲート忠実度
ゲート忠実度とは、量子ゲート(量子ビットに対する操作)が理論的に理想とされる動作にどれだけ近いかを示す指標です。量子コンピュータでは、量子ビットの回転操作や複数ビット間の相互作用操作を多数回実行するため、各ゲートの精度が低いと誤差が累積し、正しい計算結果が得られません。忠実度は 0〜1 の間で表され、1 に近いほど理想的な操作ができていることになります。イオントラップ方式の量子ビットは高いゲート忠実度を達成しやすいため、大規模な量子計算に向けた有望な候補の一つとなっています。
- ラマン遷移
ラマン遷移とは、2本のレーザー光を用いてイオンの内部状態を間接的に変化させる手法です。直接遷移できない量子状態間でもレーザーの組み合わせによって遷移を誘起できるため、量子ゲート操作に広く用いられます。本研究では、ピコ秒パルスレーザーに位相ロック技術を施し、安定したラマン遷移操作を実現しました。
- OQTOPUS
Open Quantum Toolchain for Operators and Users。OQTOPUS は、量子計算のためのオープンソースソフトウェア基盤で、ユーザーの量子プログラムをクラウド上で管理し、量子デバイスに適した制御信号へと変換して送信する役割を持ちます。これにより、ユーザーは装置を直接操作することなく、遠隔から量子コンピュータを利用できます。本研究では、イオントラップ量子ビット系に対応する専用プラグインを開発し、クラウド越しに量子ゲートを実行する仕組みを構築しました。
- 量子アルゴリズム
従来のコンピュータにおいてアルゴリズムとは、ある計算を実行するために必要な手続きや操作の列を指します。量子アルゴリズムは、量子コンピュータに特化して設計されたアルゴリズムのことを指します。量子ビットを次々に別の状態に変えたり、他の量子ビットと相互作用させる一連の流れで表されます。
