細胞が「前」と「後ろ」を作る仕組みを解明

細胞が「前」と「後ろ」を作る仕組みを解明

PIP5KとRasの相互抑制が細胞膜の双安定性を実現

2026-10-7●生命科学・医学系
生命機能研究科教授上田 昌宏

研究成果のポイント

  • 細胞が動き始める前に「前」と「後ろ」を決めるメカニズムの中核として、細胞膜でPIP5Kと活性化型Rasとが互いに相手を排除し合う関係にあることを発見
  • 「後ろ」を作るPIP5Kが「前」領域から排除される仕組みを生細胞内1分子イメージングにより解明
  • 基本的な生命機能である細胞運動のメカニズムに対する理解を進め、自発的に動く生物らしい情報処理原理の解明に期待

概要

大阪大学大学院生命機能研究科の松岡里実助教、上田昌宏教授、米国ジョンズホプキンス大学のYu Deng、Peter N. Devreotes教授らの国際共同研究グループは、細胞が「前」と「後ろ」を決めるメカニズムの中核として、細胞膜に存在するPIP5Kと活性化型Rasが相互に抑制し合う関係にあることを明らかにしました(図1)。

免疫細胞やがん細胞をはじめとする多くの細胞は、動き出す前に細胞膜上で自発的に「前」と「後ろ」を作ります。この現象は生物学における「対称性の破れ」と呼ばれ、細胞運動・貪食・細胞質分裂など生命の基本過程に不可欠ですが、その引き金となる分子メカニズムは完全には理解されていません。

今回、研究グループは、細胞性粘菌、ヒト白血球、がん細胞という多様な細胞系を用い、活性化型RasとPIP5Kとが互いに相手を細胞膜から排除し合うことを発見しました。PIP5KはRasの活性化因子であるRasGEFXを抑制していることがわかりました。これにより、受容体からの入力や細胞骨格の働きがなくても、細胞膜を自発的に「前(活性化型Rasが多くてPIP5Kが少ない領域)」と「後ろ(活性化型Rasが少なくてPIP5Kが多い領域)」の2種類の領域に分かれることが可能になります。本研究成果により、ゆらぎを利用しつつ安定するような生物らしい情報処理原理の理解に繋がることが期待されます。

本研究成果は、英国科学誌「Nature Communications」に、9月30日(水)(日本時間)に公開されました。

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図1. 活性化型Ras(Ras*)とPIP5Kの相互抑制に基づく前後の決定.

研究の背景

細胞が移動する能力は、免疫細胞の感染部位への遊走、創傷治癒、がん細胞の浸潤・転移など、多くの生理・病理過程の基盤となっています。細胞が動き始める前に、細胞膜上に存在する特定の分子が空間的に分離して存在するようになり、それぞれが「前」と「後ろ」を決めることが広く知られています。

一般的な化学反応では分子は放っておくと均一に存在するようになるのに、どのようにして細胞膜上で分子が分離した状態を維持できるのかというのは生物学の根本的な問いの一つです。研究グループは2018年に、前側の分子は後ろ側の分子を、後ろ側の分子は前側の分子を抑制する「相互抑制」の関係が自発的な分離の駆動力である双安定性をもたらすこと、これが細胞膜リン脂質PI(3,4,5)P3とその代謝酵素PTENの間で起こることを明らかにしました(参考文献1)。

しかし、PI(3,4,5)P3やPTENよりも先に活性化型Rasが「前」を決めることが分かっており、なぜ活性化型Rasは分離できるのかという問いには答えが出ていませんでした。

研究の内容

研究グループは、細胞性粘菌からヒトの白血球や乳がん細胞など、さまざまな細胞で共通して後ろ側に存在するPIP5Kに注目しました。PIP5Kを欠損した細胞は、活性化型Rasの量が増加して前側の領域が拡大した結果、より速く動くようになったり、運動方向が定まらなくなったりました。一方、PIP5Kが過剰にある細胞は、活性化型Rasの量が減少して前側ができなくなり、丸くなって運動能が大きく低下しました。PIP5Kは細胞が前後のバランスを保って移動するための重要な制御因子であり、PIP5Kが活性化型Rasを抑制することがわかりました。

研究グループは、これとは反対に、活性化型RasがPIP5Kを抑制することを、生細胞内1分子イメージング解析により明らかにしました(図2)。PIP5Kは細胞膜と細胞質の間を行き来しており、PIP5Kと細胞膜の結合・解離反応によって細胞膜に存在するPIP5Kの量が決まります。PIP5K1分子の振る舞いを顕微鏡で観察してこの反応を調べた結果、前側でPIP5Kの量が少ないのは、活性化型Rasが多いことが原因でPIP5Kは細胞膜に結合しにくく、結合してもすぐに細胞膜から解離するためであることがわかりました。こうして、PIP5Kと活性化型Rasの間に相互抑制の関係があることが明らかになりました。

この相互抑制があると、何らかの原因で活性化型Rasが細胞膜上で少し増えた時、細胞膜から解離しやすくなったPIP5Kが細胞質を拡散して活性化型Rasの少ない領域へ移動し、そこでRasの活性化を抑制する、というように、活性化型RasあるいはPIP5Kのどちらかだけが多い領域が局所的に生成され、細胞全体では空間的に分離するようにはたらく双安定性が生まれます。研究グループは2025年に、細胞膜上でRasを活性化する因子としてRasGEFXを発見し、細胞外からの刺激などがなくても、RasGEFXのはたらきによって活性化型Rasが濃縮した前側が自発的に形成されることを明らかにしています(参考文献2)。このRasGEFXによって「前」が生成される仕組みは「興奮系(excitable system)」と呼ばれる分子反応ネットワークの特徴を持ち、細胞局所において発生した活性化型Rasの量のゆらぎが確率的に増幅されることで「前」が生成されます。今回の研究では、活性化型RasがPIP5Kを抑制し、また同時にPIP5Kが活性化型RasとRasGEFXを抑制して相互抑制を形成することが分かりました。こうした相互抑制が細胞の前後を決める分子を細胞内で空間的に分離するときに最初に働く分子回路であることが明らかになりました。

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図2. PIP5Kの生細胞内1分子イメージング(左)によって1分子の反応と拡散の様子が明らかになった(右). スケールバーは2 mm.

参考文献

  1. Matsuoka, S., and Ueda, M. (2018). Mutual inhibition between PTEN and PIP3 generates bistability for polarity in motile cells. Nature Communications 9, Article number: 4481. (doi: 10.1038/s41467-018-06856-0).
  2. Iwamoto, K., Matsuoka, S. and Ueda, M. (2024). Excitable Ras dynamics-based screens reveal RasGEFX is required for macropinocytosis and random cell migration. Nature Communications 16, Article number: 117. (doi: 10.1038/s41467-024-55389-2).

本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)

本研究成果は、細胞運動という基本的な生命機能のメカニズムに対する理解の深化に資するものです。特に、細胞膜上で「前」と「後ろ」を決める分子が安定して分離した状態をとるために、細胞内シグナル伝達系において多段階で相互抑制がはたらくことを初めて示した点に大きな意義があります。

また、これまでに細胞の「前」と「後ろ」を生み出す「対称性の破れ」は興奮系によって自発的にもたらされることを明らかにしていましたが、本研究成果は興奮系を安定化するために双安定系が利用されている可能性を示唆します。興奮系は生物に内在するゆらぎを機能発現に利用する仕組みであることから、興奮系と双安定系によるその制御は、ゆらぎを利用しつつ安定するような生物らしい情報処理原理の理解に繋がることが期待されます。

特記事項

本研究成果は、2026年9月30日(水)(日本時間)に英国科学誌「Nature Communications」(オンライン)に掲載されました。

タイトル:“PIP5K-Ras bistability triggers plasma membrane symmetry breaking to define cellular polarity and regulate migration”
著者名:Yu Deng, Tatsat Banerjee, Satomi Matsuoka, Debojyoti Biswas, Liz A. Kurtz, Jane Borleis, Yu Long, Parijat Banerjee, Huiwang Zhan, Dhiman Sankar Pal, Nathan H. Roy, Masahiro Ueda, Pablo A. Iglesias and Peter N. Devreotes
DOI:https://doi.org/10.1038/s41467-026-77894-2

なお、本研究は、JST戦略的創造研究推進事業 CREST「細胞内現象の時空間ダイナミクス」研究領域 研究課題名「細胞におけるゆらぎの階層性と情報統合ダイナミクス」(課題番号:JPMJCR21E1)およびJST経済安全保障重要技術育成プログラム 研究課題名「AI・ロボティクスによる大規模自動ナノバイオイメージングの開発」(課題番号:JPMJKP25V4)の一環として行われました。

参考URL

用語説明

PIP5K

PIP5K(ホスファチジルイノシトール4-リン酸5-キナーゼ)は、細胞膜に存在するイノシトールリン脂質PI(4)Pをリン酸化し、PI(4,5)P2へと変換する酵素である。PI(4,5)P2は細胞膜の内側表面の性質を決める重要な脂質で、細胞骨格タンパク質のアンカーや、PI3Kによるシグナル分子PI(3,4,5)P3合成の材料、ホスホリパーゼCによるセカンドメッセンジャー産生の材料としても働く、細胞内シグナル伝達の要となる分子である。

Ras

Rasは、細胞の中で「オン」と「オフ」を切り替えるスイッチとして働く小さなタンパク質(低分子量GTPase)である。GTPと結合すると活性化(オン)、GDPと結合すると不活性化(オフ)の状態になる。細胞の増殖や分化を促す情報を細胞内に伝える中心的な因子であり、Ras遺伝子に変異が起こり常にオンの状態になると、がん化を引き起こすことが知られ、代表的ながん遺伝子としても有名である。

対称性の破れ

「対称性の破れ」とは、本来はどの部分も区別のない均一な状態(対称な状態)にあったシステムが、何らかのきっかけやわずかな揺らぎによって、部分ごとに異なる状態へと自発的に分かれてしまう現象を指す。物理学で宇宙初期の相転移や磁石内部の磁区形成などにおいて使われる。生物学ではこの言葉が、細胞のように本来均質な系が外部からの明確な指令なしに自発的に不均一な構造をつくる現象を指す意味で使われる。

双安定性

システムが安定していられる状態が2つあり、その中間状態では不安定になる性質を「双安定性(bistability)」と呼ぶ。今回の発見では、活性化型Ras(前側を決める分子)とPIP5K(後ろ側を決める分子)は、互いを押しのけ合うシーソーのような関係にあり、細胞膜の各場所は「Ras優位」か「PIP5K優位」のどちらかの状態に落ち着き、中途半端な状態にはとどまれない。こうして細胞膜自体が双安定性を持つことが、細胞の「前」と「後ろ」、すなわち極性が刺激なしに自発的に生まれる出発点になっている。

興奮系

「興奮系(excitable system)」とは、通常は静止した状態にあるが、ある閾値を超える刺激を受けると、刺激の大きさに関係なく一気に大きな応答(興奮)を示し、その後もとの静止状態へ戻るという性質を持つシステムを指す。神経細胞が発する活動電位が代表例で、刺激が閾値以下なら何も起こらないが、閾値を超えると常に同じ大きさの信号が生じ、信号発生後は一定時間、次の刺激に反応できない不応期を経て元の状態に戻る。この「オール・オア・ナッシング」の応答と、正のフィードバックに続く遅れた負のフィードバックの組み合わせが興奮系の本質である。今回の研究ではRasの活性化がまさにこの興奮的な性質を示し、先行研究によりRasGEFXがポジティブフィードバックを実現することが示されている。