
細胞内部の分子挙動を統計的に可視化
統計学と生物計測の融合で “見えない動き" を推定
研究成果のポイント
概要
大阪大学大学院基礎工学研究科の齋藤匠助教、松永大樹准教授、出口真次教授らの研究チームは、これまで一部の領域しか観察できなかった細胞内の分子の動きを、空間統計学に基づき細胞全体で確率的に再構築する新しい解析手法を開発しました(図1)。
細胞内では、分子が拡散や結合・解離を繰り返しながら構造をつくり、その構造自体も移動や変形を伴って生命活動を支えています。こうした分子の動きは場所によって異なり、その全体像を把握することが重要です。
研究チームは、気象解析などで使われる逐次ガウスシミュレーション法を細胞計測に応用し、限られた測定点から細胞全体の分子拡散マップを作成しました。この手法は単なる補間ではなく、空間的な不確実性を統計的に表現できる点が特徴です。結果として、細胞内部には明確な空間パターンが存在し、細胞質では分子が速く動き、核や小胞体では遅い傾向が確認されました。これにより、細胞内の構造密度や分子結合の違いが分子挙動に反映されていることが示唆されました。
本研究は、細胞内の分子拡散だけでなく、細胞内構造物の変形や結合動態の解析にも拡張可能であり、生命現象を空間統計的に理解するための新しい基盤技術となることが期待されます。
図1. 空間統計学に基づく細胞内分子拡散の解析
空間相関を考慮した逐次ガウスシミュレーションにより、限られた観測点から細胞全体の拡散係数分布を確率的に推定したものである。左図はヒト骨肉腫細胞における局所的な拡散係数の測定点を示し、右図は得られたデータから再構築した細胞全体の分布である。細胞質では拡散が速く、核や小胞体では遅い傾向が確認され、空間的な構造の違いが分子の動きに反映されていることを示している。このように、本手法により、細胞全体における分子の動きを地図のように可視化し、細胞内部の構造的特徴や拡散特性を定量的に比較できることが実証された。
研究の背景
細胞内での分子の動きは、拡散・結合・解離といった多様な過程により生じ、細胞の構造形成や機能維持に深く関わっています。これまで、FRAP法(Fluorescence Recovery After Photobleaching)やFCS法(Fluorescence Correlation Spectroscopy)などによって分子の動きの局所的な測定が行われてきましたが、測定点が限られるため、細胞全体の動態を捉えることは困難でした。
一方、気象学や地質学の分野で発展した空間統計学の手法では、限られた観測点から全体の分布を確率的に推定できます。研究チームは、この考え方を生細胞計測データに応用しました。
研究の内容
研究チームは、逐次ガウスシミュレーション法を用い、FRAP測定などで得られる局所拡散係数データをもとに、細胞全体の分子拡散マップを構築しました。この手法は、空間相関を考慮して逐次的に乱数生成を行うため、分布のばらつきや推定精度を同時に評価できます。
数値シミュレーションによって推定の再現性や信頼性が確認され、実測データと整合する空間パターンが得られました。これにより、細胞内部構造の複雑な力学的・化学的性質を、統計的モデルとして定量的に理解する道が開かれました。
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
本研究で確立した解析手法は、細胞の力学的・化学的変化を統計的に評価できる汎用ツールとして、今後、
• 疾患や老化による細胞内部構造の変化解析
• 創薬スクリーニングや薬剤効果の空間的可視化
• 組織スケールのデータ融合解析
などへの応用が期待されます。
また、細胞全体を確率的に見る新しい視点を提供するものであり、今後のシステム生物学・メカノバイオロジー・生物物理学などの発展に寄与します。
特記事項
本研究成果は、米国生物物理学会が発行する学術誌 Biophysical Journal に、2025年10月7日付でオンライン掲載されました。
論文タイトル:Mapping intracellular dynamics across the whole cell with spatial statistics
著者:Yohei Okabe, Takumi Saito, Outa Nakashima, Daiki Matsunaga, Shinji Deguchi
DOI:https://doi.org/10.1016/j.bpj.2025.10.005
なお、本研究の一部は、日本学術振興会(JSPS)の科学研究費助成事業の支援を得て行われました。
参考URL
用語説明
- 空間統計学
地図や気象データのように、場所によって異なるデータを解析する統計学の分野。近い場所ほど似た性質をもつという空間相関を扱う。
- FRAP法
蛍光分子をレーザーで褪色し、その部分の蛍光がどのくらいの速さで回復するかを観察して、分子の動きを調べる方法。
- FCS法
蛍光の強さのゆらぎを解析し、分子がどのくらい速く動いているかを調べる方法。
- 拡散
分子が細胞内をランダムに動き回る現象。
- 結合・解離
分子同士がくっついたり離れたりすること。細胞内の化学反応や構造変化に関わる過程。
- 逐次ガウスシミュレーション法
観測点のデータから、空間的なばらつきを考慮して全体の分布を逐次的に推定する手法。
