
イヌiPS細胞の新たな培地を開発
心筋細胞へ安定して分化させることが可能に
概要
iPS細胞は、再生医療や創薬研究で広く利用されています。近年ではイヌiPS細胞も作製され、動物医療やヒトの遺伝病研究への応用が期待されています。しかし、イヌiPS細胞を多様な細胞へ分化させるには効率が低く、細胞株ごとに分化能力にばらつきが見られる点が大きな課題となっています。特に現在の培養条件では、iPS細胞の性質が均一でなく、安定して機能的な細胞を得ることが困難でした。
大阪公立大学大学院獣医学研究科の鳩谷 晋吾教授、木村 和人研究員(兼カリフォルニア大学デービス校獣医学部研究員)、大阪大学ヒューマン・メタバース疾患研究拠点の西村 俊哉特任講師(常勤)らの国際共同研究グループは、従来のiPS細胞の培養液よりも、遺伝子発現がより均一で、細胞の性質が安定する「AR培地」を開発しました。さらにAR培地で培養したイヌiPS細胞を用いて心筋細胞への分化を試みたところ、心筋特有の遺伝子やタンパク質が発現し、規則的に拍動を繰り返す細胞集団が得られました。
本研究成果は、2025年9月18日に国際学術誌「Stem Cell Reports」のオンライン速報版に掲載されました。
研究の背景
iPS細胞は無限に増える能力と心臓や神経などあらゆる細胞に分化する能力を持ち、再生医療や創薬研究で広く利用されています。イヌにおいてもiPS細胞が作製されており、動物医療への応用が期待されています。また、イヌはヒトと生活環境を共有し、さらにイヌ種ごとに特徴的な遺伝病を多く抱えているため、ヒトと共通する病気の研究に適しています。特に、イヌは品種ごとに遺伝的に均質であることから、まれな遺伝病が高頻度で発症します。例えば、拡張型心筋症の発生はヒトでは0.004%にすぎませんが、ドーベルマンでは58%に達します。このような特徴から、イヌはヒトの遺伝病研究や新しい治療法の開発に大きく貢献できると考えられており、遺伝病を持つイヌ種からiPS細胞を作製して各種細胞へ分化させることで、病気の原因を調べ、治療法を開発することが可能となります。
これまで本研究グループでは、イヌiPS細胞の作製に成功していますが、iPS細胞からさまざまな細胞へ分化させるには効率が低く、細胞株ごとに分化のばらつきがあることが大きな課題でした。特に、現行の培養条件では、イヌのiPS細胞が不均一となり、機能的な細胞への分化が安定して得られない状況でした。以上のことから、イヌのiPS細胞を安定的に維持・分化できる技術の確立が強く求められていました。
研究の内容
本研究では、はじめにCRISPR-Cas9技術を用いて、イヌiPS細胞に、幹細胞が未分化の状態を保つために働く重要な遺伝子「Nanog」の働きを、光で可視化できるレポーター細胞を作製しました。これにより、どの培養条件が未分化な状態の細胞を安定して維持できるかを精密に調べることが可能になりました。
次に、このレポーター細胞を使って、複数のシグナル経路(FGF、Activin/TGFβ、WNTなど)を調べたところ、「FGFとActivin/TGFβの働きを活性化すること」「WNTシグナルを抑えること」が、イヌiPS細胞を均一で未分化のまま維持する上で特に重要であることが分かりました。そこで本研究グループは、この条件を組み合わせた新しい培養液「AR培地」を開発しました。そして、AR培地で培養したイヌiPS細胞は、従来の培養液と比べて、遺伝子発現がより均一になり、細胞の性質が安定し、凍結保存から戻したときに分化してしまう細胞が減少、さらに長期間培養しても染色体異常が起こりにくいという特徴を示しました。さらに、このAR培地で培養したイヌiPS細胞を用いて心筋細胞への分化を試みたところ、心筋特有の遺伝子やタンパク質が発現し、規則的に拍動を繰り返す細胞集団が得られ、心筋の収縮を担う「サルコメア」と呼ばれる構造が整って形成されました。
本研究成果から、新しい培養条件によってイヌのiPS細胞から機能的な心筋細胞を安定して得られることが示されました。
期待される効果・今後の展開
今回の研究により、イヌのiPS細胞を安定的に維持し、心筋細胞などの機能的な細胞へ効率よく分化させるための培養条件が確立されました。この研究成果から、AR培地で培養したイヌiPS細胞を用いることで、心筋以外の細胞への分化も期待され、心臓病や肝臓病、神経疾患など、治療が難しい病気に対する再生医療の可能性が広がります。また、イヌiPS細胞から得られた心筋細胞は、薬の効果や安全性を評価する試験にも活用でき、ヒトとイヌに共通する遺伝病の治療開発や前臨床試験に貢献します。イヌはヒトと生活環境を共有し、種ごとに多様な遺伝病を抱えているため、疾患モデルとしても有用です。イヌを利用した検証研究は、ヒトの再生医療や遺伝病治療の開発を加速させると期待されます。一方で、今後の課題としては、心筋細胞以外の臓器・組織への分化誘導の確立、長期培養での安全性評価、臨床応用に向けた大量培養技術の開発などが挙げられます。これらを解決することで、イヌとヒトの双方に役立つ再生医療の基盤技術へと発展していくことが期待されます。
特記事項
【論文情報】
【発表雑誌】Stem Cell Reports
【論 文 名】Signaling pathway-based culture condition improves differentiation potential of canine induced pluripotent stem cells
【著 者】Toshiya Nishimura, Kazuto Kimura, Kyomi J. Igarashi, Kohei Shishida, Hiroko Sugisaki, Masaya Tsukamoto, Aadhavan Balakumar, Chihiro Funamoto, Masumi Hirabayashi, Amir Kol, Shingo Hatoya
【掲載URL】https://doi.org/10.1016/j.stemcr.2025.102640
本研究は、日本学術振興会 科学研究費助成事業(JSPS KAKENHI, 21H02378, 24K21916)、カリフォルニア大学デービス校 Companion Animal Health センターの助成(Grant Number 2023-60-F)を受けて実施されました。
