
筋萎縮性側索硬化症(ALS)治療をめぐる 日本・英国・米国の医師の態度を比較
患者さんの意思決定をよりよいものにするために
研究成果のポイント
- 筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者さんに対して、のどにチューブを入れ機械で呼吸を助ける治療(TIV)を使うかどうかをめぐる医師の態度が、各国の医療制度や文化により大きく異なることが明らかに。
- TIVを導入するALS患者さんの割合が国によって大きく異なっている背景を比較・分析するため、日本、アメリカ、イギリスの医師にインタビューを実施。その結果、「TIVの医学的妥当性と医療資源としての位置付け」および「医師の態度と文化的規範」といった2つの大きなテーマを発見。
- ALS医療における意思決定の問題や限られた医療資源をどのように使うかなどという倫理的な課題を考えるうえで重要な示唆となるほか、社会全体で、「個人の権利」と「公共の利益」をどう両立させるかという問題に向き合うための、重要な一歩となることに期待。
概要
大阪大学大学院医学系研究科の林令奈助教(医の倫理と公共政策学)とオックスフォード大学上廣オックスフォード研究所のドミニク・ウィルキンソン教授は、筋萎縮性側索硬化症(Amyotrophic Lateral Sclerosis: ALS)の患者に対する、「気管切開下侵襲的人工呼吸器治療 (Tracheostomy Invasive ventilation: TIV)」について、日本、アメリカ、イギリスの医師がどのような価値観と考え方を持っているかを調査し、医師が患者の自律をどう考えているか、また医療制度や文化が治療選択の説明や患者の判断にどう影響するかについて、国ごとの違いを明らかにしました。
TIVを導入しているALS患者さんの割合は、国によって大きく異なっており、割合に差が見られる理由としては、医療経済的な要素、患者団体の推奨、人工呼吸器治療の中止ができるかできないかの法律的、倫理的な問題などが推察されています。
今回の研究では、3つの仮想ケース(仮の患者の事例)を使って、日本、アメリカ、イギリスの医師、合計12名にインタビューを行った内容を分析したところ、「TIVの医学的妥当性と医療資源としての位置付け」および「医師の態度と文化的規範」といった2つの大きなテーマが明らかになりました。
アメリカとイギリスの医師は「TIVは負担が大きく、望ましいとはいえない治療」としながらも、患者の意思を最も重視していました。但し、イギリスでは医療制度上TIVの提示自体が難しく、アメリカでは保険内容により制限されることが伺えました。日本では中立的にTIVを提示しつつも、一度導入すると中止が法的に困難なため慎重な姿勢をとっており、また、医師や家族の意向が患者の意思決定に強く影響する傾向がありました。
本研究は、医療だけでなく、社会全体で、「個人の権利」と「公共の利益」をどう両立させるかという問題に向き合うための、重要な一歩になると考えられます。
本研究成果は、米国の科学専門誌「American Journal of Bioethics Empirical Bioethics」にて、2025年3月19日(水)(日本時間)に公開されました。
研究の背景
ALS(筋萎縮性側索硬化症)は、全身の筋肉が徐々に動かなくなっていく病気で、進行すると自分で呼吸することも難しくなります。そのような状態になったとき、「気管切開下侵襲的人工呼吸器治療(TIV)」と呼ばれる治療が選択肢の一つとなります。これはのどに穴をあけてチューブを入れ、機械で呼吸を助ける方法です。
しかし、このTIVを導入しているALS患者さんの割合は、国によって大きく異なっています。例えば、日本では、世界的にみてもTIVを導入する患者さんの割合が27〜45% と高めですが、アメリカやイギリスでは1〜15%と低い傾向にあります。この割合に差が見られる理由としては、医療経済的な要素、患者団体の推奨、人工呼吸器治療の中止ができるかできないかの法律的、倫理的な問題、などが推察されています。
これまで、このような違いがなぜ起こるのかについて、「医師の態度」「医療制度や文化の違い」などの視点から、3カ国を比較した研究はほとんどありませんでした。本研究ではこのような背景に注目し、医師の考え方や態度の違いを丁寧に比較・分析しました。
研究の内容
本研究では、日本、アメリカ、イギリスの医師、合計12名を対象に、ALS患者にTIVを導入するかどうかという意思決定の過程について、半構造化インタビュー(ある程度決まった質問を用いつつ、自由に話を聞く方法)を行いました。3つの仮想事例(ALS患者のケース)を提示することで、以下の2つの大きなテーマが明らかになりました。
(1)TIVの医学的妥当性と医療資源としての位置付け
TIVは医療技術的には可能な治療ではありますが、患者さん自身にとっても、家族や介護者にとっても、大きな負担がかかります。そのため多くの医師が、「望ましい治療とはいえない」と考えていました。またTIVは、医療資源を多く使う治療、また限られた医療資源としての性質も考えると、導入をすることが難しい治療選択肢であることが指摘されました。
(2)医師の態度と文化的規範
アメリカとイギリスの参加医師たちは、「患者の自律(自分で決める権利)」を重要と考えており、患者が治療を拒否する権利も明確に保証されていると話しました。イギリスの医師の間では、医療制度上TIVは実現が困難な治療でもあることや、イギリス人にはTIVを装着した生活を望む人が少ないという現実もあり、TIVを治療選択肢として提示しないこともありました。アメリカの参加医師は、中立的にTIVを治療選択肢として説明しましたが、実際に治療が受けられるかどうかは、患者が入っている医療保険の内容によって決まると話しました。日本の参加医師たちは、患者の自律を尊重しつつも、TIVを始めた後にやめることが法律的に難しいという事情を踏まえ、導入にはとても慎重でした。また、日本では、医師や家族の意向が、患者さんの選択に強く影響する傾向があることも見えました。
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
本研究は、ALSという難しい病気に対する治療の選び方が、国によってどれだけ異なっているかを明らかにしました。特に日本では、TIVを中止することにはいまだに議論があり、患者さんの治療を拒否する権利に法的な保証もないことから、一度TIVを導入すると、患者さんが中止を望んでも、中止することが難しいという問題があります。これは、患者さんの「自分で決める権利」が十分に守られていない可能性を示しています。今後は、患者さんの意向を尊重できるような法制度やガイドラインなどを考える必要があるかもしれません。また、TIVは多くの医療資源を必要とする治療です。そのため、「限られた医療資源をどのように配分するべきか(配分的正義)」という社会全体の課題にも関係しています。この研究は、医療だけでなく、社会全体で、「個人の権利」と「公共の利益」をどう両立させるかという問題に向き合うための、重要な一歩になると考えられます。
特記事項
本研究成果は、2025年3月19日(水)(日本時間)に「American Journal of Bioethics Empirical Bioethics」(オンライン)に掲載されました。
タイトル:“‘An Unimaginable Challenge’: A Cross-Cultural Qualitative Study of Ethics and Decision-Making Around Tracheostomy Ventilation in Patients with Amyotrophic Lateral Sclerosis”
著者名:Reina Ozeki-Hayashi1,2,3, Dominic J.C. Wilkinson4,5,6,7
所属:
1. 大阪大学 大学院医学系研究科 医の倫理と公共政策学
2. 東京大学 大学院医学系研究科 医療倫理
3. Institute for the History and Ethics of Medicine, Interdisciplinary Center for Health Sciences, Martin-Luther-University Halle-Wittenberg
4. Uehiro Oxford Institute, University of Oxford
5. John Radcliffe Hospital,
6. Murdoch Children’s Research Institute
7. Centre for Biomedical Ethics, National University of Singapore Yong Loo Lin School of Medicine
DOI:https://doi.org/10.1080/23294515.2025.2474928
なお、本研究は、上廣倫理財団研究助成「ALS患者へのTIV(侵襲的換気治療)に関わる意思決定における医療者の考え方に関する日英米比較質的研究 ーより臨床実践的な指針に向けて」、JSPS科研費JP24K20166の一部助成、またThe Wellcome Trust 203132/Z/16/Zの助成を受けて行われました。