多文化多言語の子ども 誰一人取り残すことのない学びの環境を目指して
人文学研究科 櫻井千穂 准教授
グローバル化に伴う国際移動の増加により、学校現場では多様な背景を持つ子どもが年々増加している。このような子どもたちは、言語発達のプロセスも多様。そのため、一人ひとりの言語発達と教科学習との相互関係を的確に捉え、学習指導の方針や教育環境の整備を行うことが求められる。しかし、教育現場では教員不足と長時間労働が深刻な社会問題となっており、限られた時間の中で教員の専門性の習得も課題だ。 こうした子どもたちの言語と認知の発達を、環境との相互作用の中で捉え直す取り組みを20年間続けてきた櫻井准教授は言う。「表面的な日本語の習得だけでなく、文化的言語的な多様性を尊重し、母語も含めた全ての力を最大限に引き出せる教育ができる。そんな社会づくりを実現したい」。その足取りは、子どもの学びを支え、社会の変革を静かに志す、揺るぎない実績と信念に裏打ちされている。

「ダブルリミテッド」を肌で感じて
海外をルーツとし、文化的言語的に多様な背景を持つ子どもたち「CLD(Culturally and Linguistically Diverse)児」は、日本でも年々増加している。櫻井准教授は大学院生時代から20年近く、CLD児の複数言語での学びを支える活動や言語発達に関する調査を続けてきた。その数は1000人以上にのぼる。当時はCLD児の言語能力を捉え、評価するツールがなかったため、その開発にも取り組んできた。特に胸を痛めるのが、日本語も母語も十分に育っていないと見なされる「ダブルリミテッド」状況の子どもたち。出会った低学年児のうち「8割近くを占める」という。ただし櫻井准教授は「そもそも日本語母語話者を基準に“できない”とする見方自体が誤っている」と強調する。
櫻井准教授らが開発してきた評価ツールは2014年に文部科学省から「対話型アセスメント DLA」(Dialogic Language Assessment)として公開され、今年4月には改訂版DLAと評価・指導の全体的枠組みとなる「文化的言語的に多様な背景を持つ外国人児童生徒等のためのことばの発達と習得のものさし」(略称 ことばの力のものさし)が新たに公開された。全国の研究者や現場の教師との協働により3年がかりで完成した最新の成果である。
妥当性検証で評価の質を高める ことばの力で未来を拓く
DLAは、CLD児の母語も含むことばの力を、対話を通して捉える支援つき評価ツールで、9カ国語に対応する。「ことばの力のものさし」は、DLAや日頃の観察で得た情報から、子どもの思考力を支える複数言語の発達と、日本語固有の力の習得状況を把握し、指導計画につなげるためのガイドだ。
「これは知識を測るテストではなく、子どもの現在地と必要な支援を多面的に把握する目安です」と強調する。その土台には、国内外の先行研究に加え、理論的、実証的な知見の蓄積である「トランスランゲージング教育論」や「発達の最近接領域(ZPD)」など、子どもの発達に関する重要な理論が生かされている。
「ことばの力のものさし」の開発で櫻井准教授が心血を注いだのが「妥当性の検証」だ。「妥当性検証は言語能力評価法開発の根幹です」と語る。学校現場で本当に役立つ評価法にするため、CLD児教育に携わる全国の教員や支援者とともに、子どもの動画をもとに5000件を超える評価データを集めて統計的に分析すると同時に、「ことばの力のものさし」を用いた授業実践を積み重ねた。その結果、子どもの母語がわからない指導者でも、多言語で育まれる子どもの力を正しく見取れる視点を得るための評価の枠組みが完成した。研究者と現場が力を合わせて築き上げたこの成果は、世界的に見ても新しい取り組みである。
生成AIで指導計画案を作成する共同研究で 「思考するための言語」習得のため教員支援を
櫻井准教授の挑戦は現在進行形でも続いている。今年6月末、富士通Japanと阪大ふくふくセンター(※)との間で、「多文化多言語の子どもの生成AIによる教育支援に関する共同研究」がスタートした。
全国の学校や自治体から研修依頼やCLD児の支援に関する相談が絶え間なく届いている櫻井准教授。「頑張っても外部研修は週1回が限度。睡眠時間を削って体力的にも大変です」と笑い、多忙な日々の中でも、現場の声に真摯に耳を傾け、困っている人がいれば駆けつけている。
櫻井准教授は長年の子どもたちとの濃密な対話を通して、子どもの潜在的な力を引き出す専門性を磨いてきた。今回の共同研究では、これまでの経験を活かし、生成AIによる「個別の指導計画案」を作成することで現場の教員の負担軽減を目指す。並行して文科省の実証研究も始動。AIに学習させる適切な教師用データ作成のために数十人からなる専門家集団も組織し、「真に先生や子どもたちの役に立つものが実用化できたら嬉しい」と期待を寄せる。
ことばは思考のツール、多文化共生社会実現に向けて
櫻井准教授の活動の根底にあるのは、「マイノリティーの言語や文化的背景を持った人たちが、日本社会の公正な一員として認められるべきだ」という願い。多文化多言語を尊重する社会を目指す阪大の教育理念とも響き合う強い信念だ。
日本の社会や学校について「規範やルールでがんじがらめ。日本語指導も、子どもを変えよう、日本語を教えようという意識が強いと、子どもたちが苦しい思いをする。本当に変えるべきは、社会であり私たち大人なのです」と語る。ことばは単なるコミュニケーションツールではない。考えや想いを表現する「思考するためのツール」だ。研究に携わって20年。ずっと変わらないのは、「子どもの意欲や自発性を尊重し、冷静にエビデンスを追求すること。その『泥臭い』情熱と持続する志を自らの美学とすること」だ。「冗談ではなく、本当は私の仕事がなくなったらいいと思います」と結ぶ櫻井准教授。このことばに、すべての子どもたちが、自分のことばで自由に考え、表現できる社会を願う、櫻井准教授の想いが込められる。
櫻井准教授にとって研究とは?
子どもの「声」を真摯に届けること。 周縁化されがちな「声なき声」を、対話を通じて丁寧に拾い、公正な教育を目指して社会に働きかけていく。私の探し続けている答えは、やはり子ども自身の中にあります。理論と現場を往還しながら、その答えに向き合い続ける。そのプロセスこそが私にとっての研究です。
※阪大ふくふくセンター
正式名称は「大阪大学大学院人文学研究科附属 複言語・複文化共存社会研究センター」。25の専攻語を有する外国語学部がある箕面キャンパスに2023年に設立。外国にルーツを持つ子どもたちの支援や教育活動を推進し、自治体や教育機関、NPOなどとも連携を進める。複言語・複文化の共存が当たり前となり、自らのルーツに誇りを抱きつつ日本社会で生活できる社会の構築を目指す。
◆プロフィール 2013年大阪大学大学院言語文化研究科博士後期課程修了。博士(言語文化学)。16年同志社大学日本語・日本文化教育センター准教授、19年広島大学大学院教育学研究科准教授などを経て、21年大阪大学大学院言語文化研究科講師。22年から現職。「優れた研究と教育実践を往還しての社会貢献」に対して2023年度日本語教育学会奨励賞を受賞。
■参考URL
外国語学部
複言語・複文化共存社会研究センター
(本記事は、2025年10月発行の大阪大学NewsLetter 93号に掲載されたものです。)
(2025年7月取材)
