働くあなたの「心」は誰のもの?
現代の息苦しさを感情資本主義で解きほぐす
人間科学研究科 山田陽子 准教授
資本主義社会では、ありとあらゆるものが経済活動の中に取り込まれてゆく。人間の「心」もしかり。企業は働く人のメンタルヘルスを重視し、市場には消費者の感情をゆさぶる商品があふれている。自身の感情のコントロールは、仕事を円滑に進めるうえで必要不可欠だ。人間の内面までもケアがゆき届いているようで、しかし、何となく息苦しさも感じる世の中。山田陽子准教授は労働と感情の関係について、社会学の立場から冷静な論考を展開している。働く人の声を丹念に聞きとる山田准教授の研究は、現代社会の心の問題に立ち向かう上で、多くのヒントを与えてくれる。
現場の声を傾聴する
「社会学の学説や理論を丹念に読み込むことと、インタビュー調査等を通して現場を知ること、双方を大切にしてきました」。
学説理論という社会分析のための道具箱を絶えず更新・深化するよう努めると同時に、フィールドには虚心坦懐に向き合う山田准教授。抽象と具体を往復しながら研究を進める。
学部生の頃は、ソーシャルワーカーになるべく、社会福祉士の国家資格を取得。そこで、「相手を個別化して尊重し、自分の価値判断をはさまずに傾聴する」ことの大切さを知った。
ちょうど、阪神淡路大震災、神戸児童連続殺傷事件など地元・神戸の出来事を契機に「心のケア」が日本社会全体で議論され始めた90年代末。山田准教授は、人々の心の動きと社会がどのようにつながっているのかに関心を抱き、社会学を志した。
2000年、画期的な司法判断に遭遇する。大手広告代理店社員の「過労自殺」に対し、会社の責任を認める初の判決が出されたのだ。従来は「個人の責任」とされてきた、過労からのうつ病、自殺というプロセスについて、労働災害補償などの制度を通じて「社会が救うか救わないか」という線引きが変更されていく。その過程を追う中で、山田准教授は労働と感情のかかわり方を探求するようになる。
育休中に出会った「感情資本主義」
研究を深化させる新たな糸口は、育児休業の間に見いだした。
管理されたスケジュールで進む仕事と、予測不能な出来事が頻発する子育てでは、時間の進み方が別世界のように異なる。目まぐるしい日々、「研究の世界に戻れるだろうか?」という不安の中出会ったのが、ヘブライ大学の社会学教授、エヴァ・イルーズが唱える「感情資本主義(emotional capitalism)」だった。
感情資本主義とは、感情が排除された公的領域と感情に満たされた私的領域という二分論から踏み出し、「経済社会のエモーショナリゼーション」と「感情生活の経済化・合理化」が同時進行する現代社会を捉え直そうという試みだ。仕事など公的な経済的行為に、アンガーマネジメントなど感情にフォーカスしたツールが持ち込まれ、生産性の向上や職場の人的資源管理に利用されるのが前者。後者は、家庭など情緒的で計算不可能と考えられてきた領域に合理性や効率性、公平性などの基準が流入している状況を指す。育休中に感じた焦りや葛藤は、まさに自らが「感情生活の経済化・合理化」の渦中にいることから生まれるものだった。
「これは現代社会を考える重要なヒントになる」。感情資本主義という切り口を研究の一つの軸とすることに決めた。
今、どんな時代を生きているのかを知るために
感情資本主義は労働にどのような影響を与えているのか。企業を効率的、合理的に運営するため、働く人には状況に応じて表現すべき感情を察知して、適切な感情表現を行う「感情管理能力」が求められる。一方、企業も働く人のメンタルヘルスをリスクとして捉え、その把握と管理に乗り出している。
実際、働く人の「心の健康」のため、個々の睡眠時間まで計測し、ポテンシャルを最大限生かせるようサポートする企業がある。一見、労働者は健康になるための手厚い福利厚生を受けているだけのようにも見える。でも、何か息苦しさを感じる。どうしてなのだろう?
労働と感情をめぐる言葉にできないもやもやに、感情資本主義は新しい視点を与えてくれる。感情が資本として扱われ、生産性向上のために利用される場面があるという状況を知るだけでも、少し気持ちが楽になるかもしれない。ただし、「感情の物象化に対する予定調和な批判だけで終わりにするわけではない」。社会学者として、できるだけニュートラルであることを心掛けている。最近は、企業からの声掛けもあり、様々な立場の人の話を聞く機会が増えたという。「ビジネスパーソンから『自分たちの働き方や生き方は、これでいいのか』という声もしばしば聞きます。私たちは一体どんな時代を生きているのか、皆さんとともに考える材料を提供したい」。感情資本主義を軸に、現代の日本社会を紐解く試みは続く。
AIは心の平穏に寄与するのか
心に踏み込むのは、資本主義だけではない。近年、肉体的、精神的、社会的に健康な状態を保つ「ウェルビーイング(Well-Being)」への世界的な注目の高まりにあわせて、「心の健康」はもはや国の重要政策課題となっている。鍵を握るのは人工知能(AI)だ。AIにビッグデータなどを組み合わせ、テクノロジーによって心の問題を「解決」し、精神的に豊かな社会を作り出そうとする研究が進められている。AIはすでに労働者の睡眠管理や自己啓発、医療や看護、ケア労働など至るところで活用されている。心に対する自然科学的アプローチとそれに紐づく心身のケア技術の普及を特徴とする新たなテクノクラシーは、人間と社会に何をもたらすのだろうか?
山田准教授は「社会はAI導入による変化の途上にあり、そこで起こることをしっかり観察する必要がある」と考える。心の領域に踏み込むAIに、何を学習させるべきなのか。翻ってそれは、社会の中で人間がしているケアの本質を問うことにもなる。
心はもはや自分だけのものではない。資本として階層移動の手段となることはもちろん、科学技術による操作すら可能になりうる時代が迫っている。その時に何が起こるのか?答えを教えてくれるのは、社会学かもしれない。
山田准教授にとって研究とは?
社会を知ること、社会に貢献すること。現代社会がどのように成り立っているのか、社会の構造とそこに生きる人々のありようについて社会学の学説や社会調査を通して研究してきました。そのアウトプットを社会で共有し、様々な社会課題の解決につながればいいと思っています。
◆プロフィール
神戸大学大学院総合人間科学研究科博士課程後期課程修了。博士(学術)。2022年から大阪大学大学院人間科学研究科准教授。2007年、日本社会学史学会奨励賞を受賞。『働く人のための感情資本論―パワハラ・メンタルヘルス・ライフハックの社会学』(青土社)は「紀伊國屋じんぶん大賞2020 読者と選ぶ人文書ベスト30」に選ばれた。近著に『ポスト・ヒューマン時代の感情資本』(De-silo Label BOOKS, 2024)。
■参考URL
(本記事は、2024年9月発行の大阪大学NewsLetter91号に掲載されたものです。
(2024年7月取材)