「転ばぬ先の杖」新技術のデビューを支えるELSI
社会技術共創研究センター(ELSIセンター) センター長・教授 岸本充生
オンライン形式の会議や電子マネー、ロボットによる接客……。めまぐるしいスピードで変化する現代社会に登場、普及した新たなテクノロジーやそれに基づくサービスはこの数年に限っても枚挙にいとまがない。新技術が社会実装されると、ユーザーである我々は当初、それに戸惑い、あるいは開発者も予想し得なかったリスクに見舞われることがある。 大阪大学は2020年、社会技術共創研究センター(ELSIセンター)を開設した。企業との共同研究を主軸に、新技術・サービスが世に出る前に、生じうるリスクを想定し回避策を講じる。でも、ELSI(エルシー)って何だろう?センター長の岸本充生教授に聞くと、「L」に適合していても「E」「S」への配慮が備わらないと「炎上」につながりかねないという。鍵になるのは開発段階からの周到な議論だ。
新技術と社会のギャップを埋める
ELSIは、おそらく誰でも思い当たる経験がある話題だ。ELSI は、Ethical(倫理)、Legal(法律)、Social(社会)、そして Issue(課題)の頭文字をとったもの。はて?となる方も多いだろうから、身近な例を挙げて説明する。
例えば、ノンアルコールビールを飲んで車を運転しても法的には全く問題ない。あくまでビールテイストの炭酸飲料だからだ。だが、職場のランチタイムで、プシュっと缶を空けてグビグビ飲む勇気をあなたはお持ちだろうか?同様にシャープペンシルの持ち込みは、小学校の規則で授業では使用禁止とされていた記憶をお持ちの方もおられるだろう。「ノンアルコールなのだから、別に飲んでも構わない。シャープペンシルも本質的には鉛筆と同じ。でも、モヤモヤは残る。新しい技術やサービスには、法的には問題なくても倫理や社会常識とのギャップが付き物。世に出る前に、技術開発者らと連携し、そのギャップを想像し、言語化して埋め合わせていくのがELSIの役割だ」と岸本教授。
教授が続ける。「ELSIという概念は、1990年に米国で始まった『ヒトゲノム解析プロジェクト』の中で登場した。だから、生命科学の研究者からすれば、『いまごろELSIなんて言っているの』という感覚かもしれない。ところが近年、AIへの注目もあり、他の分野でも重視されるようになってきた」。米国ではゲノム研究予算の少なくとも5%をELSI研究に割り当てることが義務付けられている。その後、ELSIはナノテクや脳科学、コンピューターサイエンスなどの分野に拡大し、日本でも科学技術基本計画の中で取り上げられるようになった。現在では研究予算の公募要領などでも、ELSIについて考慮するよう要件付けられるようになってきている。
企業とともにELSI研究
企業の開発現場でもELSIは拡がりをみせる。大阪大学が2020年4月に開設したELSIセンターは、ELSIに特化した日本初の研究機関だ。当初想定していた主業務は「国が推進する大型研究費に応募する際に理・医・工学系部門とELSIセンターが連携すること」だった。しかし予想に反して、企業との共同研究が盛んに。例えばフリマアプリ運営のメルカリ、リコーやNECといった電子機器メーカー、NHK、電通などのメディア・広告関連企業が名を連ねる。
ELSIを考える企業が増えてきた背景には、価値観が多様になり、激しく変化する現代社会ならではの企業側の苦悩が透けて見える。法律を順守していても、思わぬ批判から企業イメージを大きく損なうなどの炎上リスクは残る。必要となるのがELSIの観点だ。
テーマとなる技術やサービスは千差万別。予想し得ないリスクが突然浮上することもあるが、そこは周到な議論の有無が鍵になってくるという。岸本教授は「開発段階でELSIについての議論を深め、そのプロセスもきちんと保存しておく。これによって社会実装後、何らかの問題が起きても『事前にさまざまなリスクの検討をしていた』という一つの説明材料になる」と指摘。「企業側に共感してもらえた例としては、『このサービスが使えない人は誰かを探る』という視点を提示したこと。新技術を使えない人に疎外感を与えないようにするには、という配慮だ」と説明する。「従来、文系分野で企業との共同研究はあまりなかった。私たちとの研究はコンサルティングではないので、何らかの知見を提供するのではなく、あくまでも共同研究。成果は原則としてプロセスも含めて公開する」(岸本教授)。実際、ELSIセンターとの共同研究1例目となったメルカリは「共同研究に基づき策定した独自の研究開発倫理指針」として成果の詳細を自社サイトで公表している。
“倫理的な正しさ”はプロセスで担保
大学院の博士課程で経済学を専攻した岸本教授。産業技術総合研究所(産総研)では、初の社会科学系研究者として、化学物質やナノマテリアルなどの安全性評価に携わった。「いくら良質な材料やサービスを作っても、安全性を事前に示さないと企業や輸出先は受け入れてくれないと実感した」と振り返る。新技術に対し、実際に事故や健康被害が起きる前に安全性の提示が求められる時代の到来だった。当時、取り組んだのはナノマテリアルが微細な素材ゆえに健康被害をもたらさないか、という課題。06年から5年をかけ、動物実験なども交えて暫定的な安全基準値を提示した。また、ロボット、放射性物質、自然災害についての知見も深めた。こうした経験が、現在の研究に結びついている。
「倫理の問題なので、常に一つの正しい答えがあるわけではない。だから、技術の開発段階で適切な議論を重ね、概ね間違いないだろうという段階まで十分に検討されたものかどうか、その手続きの適否を重視すべきだ」と強調する。目下、取り組んでいるのは、幅広い分野で使える技術やサービスのライフサイクルにおいてELSIを考慮するための手順だ。
いま私たちが用いるあらゆる技術は、かつて社会に出た直後はエマージング・テクノロジーだった。新技術による利便性を享受し、摩擦を乗り越えながら、社会は発展してきた。これからもそれは変わらない。
あなたが新たな技術を世に送り出す時、ELSIはきっと転ばぬ先の杖となる。
岸本教授にとって研究とは?
“社会的課題の先取りを”。 新しい課題を早く見つけたい。誰もやってないけれど、今後重要になるものを見つけるのが好きですね。「次は何が来るか」という嗅覚を大事にしています。
◆プロフィール
1998年京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。博士(経済学)。通商産業省(現経済産業省)工業技術院資源環境技術総合研究所や、独立行政法人産業技術総合研究所安全科学研究部門研究グループ長、東京大学公共政策大学院及び政策ビジョン研究センター特任教授を経て、2017年大阪大学データビリティフロンティア機構教授。20年4月から大阪大学社会技術共創研究(ELSI)センター長を兼任。原子力規制庁放射線審議会委員なども務める。
■参考URL
大阪大学社会技術共創研究センター(ELSIセンター)
ELSIセンターでは、研究対象を、新規科学技術全般に広げ、新規科学技術の研究開発や社会実装において顕在化しうるELSIを早期に見出し、研究開発と並行してELSIに取り組んでいくという、新しいイノベーションのモデルを確立することを目指しています。
(本記事は、2023年2月発行の大阪大学NewsLetter88号に掲載されたものです)
(2022年11月取材)