始まりは革新的酸化剤との出会い。感染制御、エネルギー問題の解決策へと夢果てしなく
薬学研究科・教授・井上 豪
ある除菌消臭剤が作用するメカニズムを調べてほしい―。 大阪大学に2015年に寄せられた1件の相談が、産学共創の大きな研究プロジェクトに発展した。阪大を中心にコンソーシアムが設置され、新型コロナウイルスなどの感染防止への活用や、このメカニズム解析から派生したメタンガスからメタノールを高い収率で安価に生成する技術の確立など他分野への応用も複数進んでいる。
きっかけは、一件の相談から
研究プロジェクトは「安全な酸化剤による革新的な酸化反応活性化制御技術の創出」。2019年9月に科学技術振興機構(JST)の「産学共創プラットフォーム共同研究推進プログラム」(OPERA)に採択され、コンソーシアムに企業6社が参画している。領域統括は薬学研究科の井上豪教授が務める。 きっかけとなった相談は約5年半前、阪大で分野横断的に創薬研究を推進する活動拠点に持ち込まれた。現在の先導的学際研究機構創薬サイエンス部門だ。一部の研究者にだけ成分が知らされ、メカニズム解析が行われた。
その結果、水溶液中にラジカル活性種が生じていることが分かった。この水性のラジカル活性種は強い酸化力を持ち、細菌やウイルス、臭いの元の物質に作用する。相談を受けた井上教授は「成分は知らされなかったが、効き目から直感でラジカルだと思った。ラジカルの専門家の工学研究科福住俊一教授(当時)に解析を依頼すると、予想通りすぐに判明した」と振り返る。
17年かけて開発された安全で有効な除菌消臭剤
この除菌消臭剤の正体は、エースネット(本社・東京都)が開発したMA-T system®(エム・エー・ティー・システム)という水溶液だ。主成分の亜塩素酸イオン(ClO₂⁻)に活性化剤が加えられている。この活性化剤の働きで、亜塩素酸イオン単独の状態よりも多くのラジカル活性種が生成されるよう平衡が保たれ、除菌などでラジカルが消費されるとすぐに補充される性質を持つ。必要な時に必要量のみ生成される仕組みだ。開発者と井上教授らは「要時生成型亜塩素酸イオン水溶液(MA-T:Matching Transformation system)」と命名した。
下記の最初の化学反応が平衡状態にあり、活性化剤は右向きの反応を進めるように働き、ラジカル活性種を多く生成すると同時に、その濃度を制御していた。
2ClO₂⁻ ⇄ ClO⁻ + ClO₃⁻ → (省略) → ラジカル活性種
これによりMA-Tが塩素臭もせず、安全で、長期間の保存にも耐える特徴を有することが分かった。「水分が蒸発しても二酸化塩素ガスが出ない。亜塩素酸イオンが人体に安全な低い濃度に抑えられており、必要な量のラジカル成分が活性化剤の働きによって生成される。17年かけて安全な除菌防臭剤を開発されたエースネットの功績だ」と井上教授は説明する。例えば、二酸化塩素ガスの水溶液には高い除菌効果があるものの、ガスに毒性や塩素臭がある。水道の消毒にも使われる次亜塩素酸イオンは高濃度が必要だが分解されやすく、ガスも出てしまう。
来年1月にも院内感染防止の臨床試験へ
メカニズム解明の結果、主成分となる亜塩素酸イオンの活性の強弱で、様々に応用できることが分かった。この活性度合いを制御する技術を研究するのが、先に示したOPERA事業だ。亜塩素酸イオンを弱く活性化させた際の「人体に安全かつ十分な除菌効果を持つ酸化力(ラジカル活性種)を生み出す」という特徴を生かし、様々な細菌やウイルスを効率よく不活化させる研究が行われている。
例えば、MA-Tで院内感染を制御するための研究が行われている。新型コロナウイルスや、アシネトバクターなど多剤耐性菌の殺菌・消毒に用いることを想定し、医学部附属病院および歯学部附属病院の協力で診察室に噴霧し、湿度や噴霧する粒径など条件を変えて多剤耐性菌への効果を調べている。また、新型コロナウイルスへの効果も阪大微生物病研究所の協力で実証され、ウイルスを1分間、0.01%のMA-Tに接触させると99.98%が不活化したという。(下表)
感染制御に活用するための研究プロジェクトは、当初の予定よりも前倒しでの実施が決まり、2020年6月、日本医療研究開発機構(AMED)からの予算を受け、早ければ2021年1月からタイのマヒドン大学附属病院で臨床試験を始める計画だ。
現時点で、消毒剤の空間噴霧が、科学的に有効と確認された例はなく、世界保健機関(WHO)も「人の健康に有害となり得る」とする。このため、臨床試験で安全性と有効性が確認されれば、世界初となる。
医学部附属病院を中心とする研究チームは「まずはWHOのガイドラインに載ることを目標にしている。大手企業と連携することで、MA-Tを安価に大量生産できるようになるので、貧困国でも使ってもらえる」と期待を寄せる。
表:MA-Tを含む溶液を使って1分間接触させたときの不活化効果
新型コロナウイルスを含む各種ウイルスに対して高い効果を確認(大阪大学微生物病研究所 松浦善治教授らが実証)
活性化を制御し、さまざまな応用へ
一方、強く活性化させれば別の分野で応用できるということを示したのが、先導的学際研究機構の大久保敬教授(光化学)だ。大久保教授は光で活性化して酸化力を高め、常温・常圧でメタンガスと空気中の酸素から液体燃料のメタノールを得る画期的な合成反応に成功。2020年7月には北海道興部町と協力し、牛のふん尿などで得られるバイオガスからメタノールを生成する技術に展開、さらに量産化へと動きをみせる。この他、中程度の酸化力を利用して高分子材料にタンパク質や結晶を直接結合させる技術の開発など、応用分野は多彩だ。活性化の方法も、マイクロ波の利用を研究している。
「大変な薬剤と出会ってしまった」と井上教授がぽつり。その一言が、可能性の大きさを物語る。最初に紹介した研究プロジェクト名「安全な酸化剤による革新的な酸化反応活性化制御技術の創出」が示すとおり、新たな技術が次々に生まれつつある。今後のさらなる展開に、学内外から注目が集まる。
※本記事に記載の研究成果は株式会社エースネットの高森清人氏、柴田剛克氏らが17年の歳月をかけてMA-T system®を開発する過程で得られたもの、および、大阪大学との共同研究で得られたものであり、現在進行中のJST研究成果展開事業産学共創プラットフォーム共同研究推進プログラム(OPERA)で行われている成果を含みます。
● OPERA
国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)研究成果展開事業 産学共創プラットフォーム共同研究推進プログラムの略称。大阪大学は、2017年9月に「安心・安全・スマートな長寿社会実現のための高度な量子アプリケーション技術の創出」、19年9月に「安全な酸化剤による革新的な酸化反応活性化制御技術の創出」の事業で採択された。