
プローブ表面の分子修飾により生体組織中の微細な脂質分布を可視化
シングルセル質量分析イメージングに向けた新技術
研究成果のポイント
- 生体組織の微小領域の成分抽出とイオン化を行う技術である「タッピングモード走査型プローブエレクトロスプレーイオン化(t-SPESI)」をもとに、装置の小型化による高感度化とプローブ表面の分子修飾による長時間安定化を実現した質量分析イメージング技術を開発。
- マウス脳組織を用いて、5マイクロメートルのピクセルサイズで脂質分布を可視化することに成功。
- これまで、一つの細胞よりも小さなピクセルサイズで質量分析イメージングを行うには、測定点ごとに得られる分子の量が少なくなるため、計測が難しくなることや、長時間測定中にプローブの先端が組織由来の成分で覆われ、分子の抽出とイオン化が不安定になるという課題があった。
- 本技術で生体組織内の細胞を調べることで、病気や治療法の研究に新たな情報をもたらすことに期待。
概要
大阪大学大学院理学研究科の安田賢生さん(博士前期課程)、大塚洋一准教授、豊田岐聡教授らの研究グループは、生体組織中の細胞一つひとつの化学成分の違いを調べるための質量分析イメージング技術を高感度化し、長時間安定して測定できる新しい測定手法を開発しました(図1)。
質量分析イメージングは、組織切片に含まれる脂質などの分子を気体状態のイオンに変換し、その質量情報を精密に調べることで、分子がどこに、どの程度存在するかを画像として可視化できる技術です。これまで、一つの細胞よりも小さなピクセルサイズで質量分析イメージングを行うには、測定点ごとに得られる分子の量が少なくなるため、計測が難しくなることや、長時間測定中にプローブの先端が組織由来の成分で覆われ、分子の抽出とイオン化が不安定になることが課題でした。
今回、研究グループは、これまで研究開発を続けてきたタッピングモード走査型プローブエレクトロスプレーイオン化法(t-SPESI)を基に、測定装置を小型化し、質量分析装置へのイオン導入効率を高めました。さらに、プローブ表面にPFPTESというフッ素を含む分子層を作ることで、組織成分の付着を抑えることに成功しました。その結果、マウス脳組織において5マイクロメートルのピクセルサイズで脂質の分布を高精細に可視化できました。
本成果は、t-SPESIによるシングルセル質量分析イメージングを疾患組織に適用することにより、病気に伴う細胞ごとの成分分布の変化を分子レベルで明らかにする新しい分析技術としての応用が期待されます。
本研究成果は、米国化学会誌「Analytical Chemistry」に7月4日に公開されました。
図1. 表面が分子膜でおおわれたプローブを用いて、マウス脳組織表面の微小領域に含まれる脂質を抽出し、イオン化している様子。プローブを、上下方向に高速に振動させながら、組織上を二次元方向に走査することで、組織中の脂質分布を可視化することができる。
研究の背景
生体組織は、多くの細胞が集まってできています。細胞は同じ組織の中にあっても、それぞれ異なる役割を担い、含まれる分子の種類や量も異なります。このような細胞ごとの違いは、さまざまな病気の発症や進行に関係しています。
細胞ごとの違いを理解するためには、生体組織の中でどの分子がどこに、どの程度存在するのかを、一つの細胞よりも小さなピクセルサイズで調べる必要があります。質量分析イメージングは、組織切片上の分子を気体状態のイオンに変換し、質量分析により調べることで、分子の種類や量の違いを位置情報と結びつけて画像として表すことができるため、この目的に有効な技術です。
大塚洋一准教授はこれまでに、「タッピングモード走査型プローブエレクトロスプレーイオン化法(t-SPESI)」の研究開発を主導し、生体組織における脂質分布の可視化に取り組んできました。t-SPESIでは、先端が数マイクロメートルの細いガラス管であるキャピラリプローブ(プローブ)を上下に振動させながら、プローブの内部に高電圧を印加した溶媒を流します。プローブの先端を試料表面に接触させると、プローブと試料表面の間に溶媒の架橋(液架橋)が形成され、試料成分が局所的に抽出されます。抽出された試料成分を含む溶媒に高電圧が印加されることで、気体状態のイオンが生成されます。生成されたイオンは質量分析装置に導入され、分析されます。プローブを試料に対して二次元方向に走査することで、質量分析イメージングを行うことができます。
しかし、t-SPESIを用いてシングルセル質量分析イメージングを行う場合、測定点の間隔を細かくするほど、一つの測定点から得られる分子の量が少なくなるため、高い検出感度が必要になります。また、広い範囲を細かく測定するには長い時間がかかり、その間にプローブの先端が組織由来の成分で覆われると、分子の抽出とイオン化が不安定になります。そのため、高い検出感度と、長時間にわたる安定した分子の抽出・イオン化の両立が課題でした。
研究の内容
本研究では、t-SPESIを用いたシングルセル質量分析イメージングを実現するために、測定装置の小型化、キャピラリプローブ表面への分子層形成、マウス脳組織切片を用いた性能評価を行いました。
まず、試料の位置と、プローブ先端に形成される液架橋の位置を観察するための顕微鏡ユニットを小型化しました(図2a,b)。これにより、試料を載せる試料ステージも小型化できました。さらに、試料ステージを小型化したことで、プローブ先端で生成されたイオンを質量分析装置へ導入するための金属製のイオン輸送管を短くすることができました(図2c,d)。イオン輸送管が短くなることで、生成されたイオンが質量分析装置に到達するまでの損失を抑え、微小な測定点から得られる少量の分子でも検出しやすい装置構成を実現しました。また、ヨウ化ナトリウム溶液を用いて装置の性能を評価したところ、イオンの信号強度が平均して約2倍に増加することを確認しました(図2e)。
図2. 本研究で開発した計測システムのモデル図。(a) 装置の全体図。(b) t-SPESIユニットの拡大図。(c) 旧型システムのイオン輸送管の写真。(d) 新型システムのイオン輸送管の写真。 (e) 新型システムと旧型システムのイオンの信号強度の比較。
次に、長時間測定中にプローブ表面へ組織由来の成分が付着することを抑えるため、キャピラリプローブの表面にPFPTESの分子層を形成しました。PFPTESは、ベンゼン環にフッ素が結合した構造をもち、石英表面との間で共有結合を形成することが知られています(図3a)。この性質を利用することで、石英製のキャピラリプローブ表面に安定な分子層を形成し、PFPTES分子に由来する撥水性・撥油性をプローブ表面に付与できると考えました。この分子層が実際にプローブ表面に形成されたことを確認するため、X線光電子分光(XPS)によりプローブ先端部分のイメージングを行いました。その結果、PFPTESの分子層を形成したプローブでは、フッ素に由来するF1s信号がプローブの形状に沿って明瞭に観察されました(図3b)。また、飛行時間型二次イオン質量分析法(TOF-SIMS)によるイメージングも行いました。その結果、PFPTESの分子層を形成したプローブでは、PFPTESに由来するフッ素とベンゼン環を含むフラグメントイオンが検出されました(図3c)。この結果から、フッ素を含むPFPTES由来の分子層が、キャピラリプローブ表面に分布していることが確認されました。
図3. 分子層を形成したプローブの分析結果。(a)本研究で使用した分子Triethoxy(pentafluorophenyl)silane (PFPTES)の構造。(b) 分子膜修飾が施されたプローブのXPSイメージングの結果。(c) 分子膜修飾が施されたプローブのTOF-SIMSイメージングの結果。
続いて、PFPTESの分子層を形成したキャピラリプローブを用いて、マウス脳組織切片(図4a)の質量分析イメージングを10マイクロメートル、および5マイクロメートルのピクセルサイズで行い、複数の脂質に由来する信号を取得しました。その中で、脂質の一種であるヘキソシルセラミドに着目したところ、マウス脳組織中の前交連、脳梁、線条体の一部に局在して分布する様子を可視化できました(図4b)。特に、10マイクロメートルのピクセルサイズでは一つの領域として見えていた脂質分布(図4c)が、5マイクロメートルのピクセルサイズで取得した画像(図4d)では、より細かな島状の構造が含まれていることを確認しました。また、約17時間の測定中でもイオン信号の大きな変動は見られず、プローブ先端にも明らかな変化は観察されませんでした。これにより、PFPTESによるプローブ表面の分子修飾が、組織由来の成分の付着を抑え、分子の抽出とイオン化を安定化することが示されました。
図4. 分子膜修飾プローブを用いて、マウス脳組織切片の質量分析イメージングを実施した結果。(a)本研究で使用した組織切片の光学像。(b) 17時間の質量分析イメージングで得られた、成分分布像。成分がヘキソシルセラミドであると推定された。(c) ピクセルサイズ10 µmのイオン像。(d) ピクセルサイズ5 µmのイオン像。(c)と(d)の図中破線領域の拡大図を、それぞれの右側に示す。
以上の結果から、t-SPESI装置の小型化による高感度化と、PFPTESによるプローブ表面の分子修飾を組み合わせることで、生体組織のシングルセル質量分析イメージングを長時間にわたり安定して行えることが示されました。
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
本研究により、t-SPESIを用いて、生体組織中の微細な脂質分布を一つの細胞よりも細かい5マイクロメートルのピクセルサイズで高精細に可視化できることが示されました。
今後は、t-SPESIによるシングルセル質量分析イメージングを疾患組織に適用することで、病気に伴って細胞ごとの分子分布がどのように変化するのかを分子レベルで明らかにできる可能性があります。例えば、病変部と正常部の境界や、同じ組織内に存在する細胞集団の違いを可視化することで、病気の発症や進行の仕組みを理解する手がかりになると期待されます。
特記事項
本研究成果は、2026年7月4日に米国科学誌「Analytical Chemistry」(オンライン)に掲載されました。
タイトル:“Development of a Tapping-Mode Scanning Probe Electrospray Ionization Platform for High-Sensitivity and Long-Term Stability in Single-Cell Mass Spectrometry Imaging of Tissue”
著者名:Takao Yasuda, Yoichi Otsuka, Tasuku Kato, Shuichi Shimma, Tomoki Misaka, Takuya Matsumoto, and Michisato Toyoda
DOI:https://doi.org/10.1021/acs.analchem.6c02386
なお、本研究は、日本学術振興会科学研究費助成事業、JSTさきがけ、旭硝子財団、中谷医工計測技術振興財団、島津科学技術振興財団、テルモ生命科学振興財団の支援を受けて行われました。
参考URL
大塚 洋一 准教授 研究者総覧
https://rd.iai.osaka-u.ac.jp/ja/7c11b03c4673bb9e.html
SDGsの目標
用語説明
- ピクセルサイズ
質量分析イメージングで画像を作る際の測定点の間隔を表します。ピクセルサイズは、空間分解能そのものを意味するものではありません。
- 液架橋
プローブの先端と試料表面との間に形成される、微量の溶媒による橋状の構造を指します。t-SPESIでは、この液架橋を介して、試料表面の成分を局所的に抽出します。
- X線光電子分光(XPS)
試料表面にX線を照射し、そこから放出される電子を測定することで、表面に存在する元素や化学結合の状態を調べる方法です。
- 飛行時間型二次イオン質量分析法(TOF-SIMS)
試料表面にイオンビームを照射し、表面から放出される二次イオンを質量分析することで、表面に存在する成分の分布を調べる方法です。
- ヘキソシルセラミド
糖を含む脂質の一種です。脳や神経組織に存在し、神経線維を取り囲むミエリンの構造維持などに関わることが知られています。
