
ヒステリシス現象の熱力学的記述を確立
熱力学における難問を解決
研究成果のポイント
- 固体において、過去の影響が消えずに観測されるヒステリシス現象を熱力学的に記述可能に。
- これまでヒステリシス現象は非平衡状態で熱力学的には記述できないと考えられてきたが、熱平衡と状態変数の定義を厳密に考察することで可能に。
- ヒステリシスはメモリー材料、エネルギー変換材料など工学的な応用に広く利用されており、その原理的な記述方法が解明されたことにより、より強固な理論基盤に立った研究開発に期待。
概要
大阪大学大学院工学研究科白井光雲 非常勤講師(研究当時:同産業科学研究所 招へい教授)は、熱平衡状態の厳密な定義を探ることにより、従来、熱力学的には記述できないと考えられてきた固体のヒステリシスの記述を可能にしました。
ヒステリシスとは図1に示すように入力Xに対し物質の応答Yに複数の値が現れることです。X、Yを状態変数と考える限りこの関係は説明できないため、従来ヒステリシスは非平衡状態として扱われており、理論的な矛盾を抱えていたものの、根本的な解決は長年できないままとなっていました。
実験で観測される複数値を持つY=Y(X)の関係式の背後には、実は内部変数という隠れた変数Zがあり、真の関係はY=Y(X,Z)で表されることはこれまでにも指摘されてきましたが、肝心の変数Zの詳細は解明されていませんでした。
本研究では、隠れた変数Zは状態変数であり、具体的にはその固体を構成する全部の原子の平衡位置 であることを示しました。今回の発見は具体的な関数の形Y(X,Z)を与えるものではありませんが、それが状態変数だけで一意的に決定できることを示したことは、難解なヒステリシス現象の理解の上で大きな前進で、今後の原理・応用双方での発展が期待されます。
本研究成果は、ドイツおよび英国の科学誌 『International Journal Thermophysics』 に、5月12日(火)(日本時間)に公開されました。
図1. 入力XがX0→X1→X0と変化をするのに対し、系の状態変化がA→B→C →D→Aとループを描く。
研究の背景
物質の性質は少なからず過去の影響が反映されます。過去の影響を逐一調べるのは大変複雑な作業です。熱力学の手法はそれに対して大変な簡略化をもたらしました。外部場の変化を止めればいずれその物質の状態変化は止まります。その状態を熱平衡状態と呼びますが、その状態は過去の履歴には依存せず、その状態に関する状態変数と呼ばれる物理量だけで決定されます。たとえば気体の状態は、温度(T)と圧力(P)という二つの状態変数だけで記述できることが知られています。TとPさえ測定すれば過去の履歴を知る必要はないのです。
一方、固体の場合、どれだけ時間を置いても過去の影響が消えないことが観測されます。メモリー媒体に使われている材料が典型例です。過去の影響が残る現象はヒステリシスと呼ばれ、熱力学的には非平衡現象であり、熱力学では取り扱えないものと考えられてきました。しかし詳しく観察すると、このヒステリシス現象は少数の記録材料だけが持つ性質ではなく、広く固体の持つ一般的な性質であることがわかります。可塑的変形はどのような固体でも持つ性質です。本研究では、この根本的な問題に対して正面から取り組みました。
研究の内容
本研究では、まずヒステリシスという現象の定義を改めて明確化しました。簡便的には、ヒステリシスとは図1のように「往と復が違うもの」と説明されますが、この定義は完全ではありません。熱力学では理想気体を使ったカルノー機関というものが使われますが、それは図2のように、Pと体積(V)の間でループを描き、往と復が違います。しかしカルノー機関というものは可逆機関であり、過程のどの瞬間にも最も平衡な系であることが知られ、これではヒステリシスが不可逆であることに反してしまいます。このような例を詳しく解析した結果、入力X とその結果Yとの関係Y=Y(X)の中に、さらに他の変数Zが介在し、本当はY=Y(X,Z)が正しい関係式となることが分かります。XとYが元に戻っても実はZは元に戻っていないことがヒステリシスです。本研究では、Zも含めて元に戻すには外部から余分の仕事が必要となり、不可逆過程になるというのがヒステリシスの本質と捉えたうえで、変数Zの正体を解明することにしました。
固体におけるヒステリシスの解析は大変複雑ですが、原理的にはシリコン結晶の例で説明できます。シリコン結晶を高温にさらし融かします。それを冷やせばまた同じ結晶が得られますので、元の状態に戻ったと結論されます。この最後の状態も熱平衡状態です。このサイクルでシリコン原子の一つが正規の位置から少しずれた場合でも、構造解析では同じ結晶構造が得られ「同じ状態に戻った」とされます。しかし厳密には、内部構造は同じではありません。このような格子欠陥は普遍的に起きていることですが、高精度の測定をすればエネルギーが僅かに変わった(=はじめの状態とは違う)ことに気付くことができます。このことから固体の熱力学的な状態というのは、変化した原子の平衡位置 の関数であることが分かります。複雑なヒステリシスも結局のところ、このような欠陥原子の集まりで理解することができます。固体の場合の状態変数は固体を構成する原子の平衡位置{^Rj}の関数であることが結論付けされます。
図2. 体積V、圧力Pで表されたカルノー機関の状態図
本研究成果が社会に与える影響(本研究成果の意義)
本研究の結論、「固体の状態変数は構成する原子の平衡位置{^Rj}」は従来の熱力学の概念(熱力学は巨視的な量だけを扱う)とは大きくかけ離れたもので、これまで根強く反対論がありました。しかし、この結論は、熱平衡の定義から厳密に導かれ、実験事実にも合致します。この新理論により、次に述べるようなより新たな発展が望めるメリットがあります。
ヒステリシス現象は電子的論理素子、エネルギー変換材料、耐久性材料などへの応用で重要ですが、本研究成果はそれに留まりません。熱力学の原理的な部分になりますので複雑系物理をはじめとしたさらに広い分野に影響を持ちます。バイオロジーの分野でも複雑系という概念は重要ですが、基本方程式というものがない、あるいは見つかっていないことが問題となっています。しかし今回の新理論で、ヒステリシスにも原理的に基本方程式というものが存在することが分かりました。生体系は熱平衡ではありませんが、ある制限の中では熱平衡の取り扱いは可能であり、基本方程式の存在を示唆できたことは大きな前進であり、理論のブレイクスルーといえます。
特記事項
本研究成果は、2026年5月12日(火)(日本時間)にドイツおよび英国の科学誌 『International Journal Thermophysics』に掲載されました。
タイトル:“History dependence in thermodynamic properties of solids”
著者名:Koun Shirai
DOI:https://doi.org/10.1007/s10765-026-03763-1
参考URL
白井光雲 非常勤講師researchmap
https://researchmap.jp/cmp.koun
用語説明
- 非平衡
力学では平衡とは力の釣り合いが取れて静止している状態を平衡、動きのあるものを非平衡という。熱力学でも基本概念は同じであるが、ただし何が静止しているかが問題となる。物理量は巨視的には静止しているように見えて、微視的には動いているからである。ヒステリシス現象においては力がつり合っているのかそうでないのか決して自明ではない。それを見極めるところが本研究のポイントである。
- 可塑的変形
固体の持つ機械的性質の一つ。固体では外部応力σを与えると歪みεが生じるが、σが小さいうちはそれを取り除くとまた元の形を復元する。しかしσがある大きさを超えると、σを取り除いてももはや元の形には戻らない。残る歪みεは加えたσの大きさだけでは決まらず、加えた時間などにも依存し、簡単な関係ε=ε(σ)では表せない。
- 不可逆
簡便的には逆にたどれないものと理解できる。しかし熱力学的ではより正確に、系の状態とその環境も含めて元の状態に復元できないことをいう。
- 複雑系
正確な学術的定義のないものが「複雑系」である。入力Xとその応答Yに簡単な関係Y=Y(X)のないものは複雑なのでそれらを総称して呼んでいる。代表が生体系である。転じて、地震、気象など正確な予測の不可能な現象にも使われている。
