源氏物語を「家」の呼び方から読み解く 千年の古典文学研究に、新たな視点を

源氏物語を「家」の呼び方から読み解く 千年の古典文学研究に、新たな視点を


人文学研究科 日本学専攻 博士後期課程3年 飯田 実花さん

日本の古典文学において、膨大な研究史を誇る『源氏物語』。紫式部が千年前に著したこの長編物語は、54巻という膨大なボリュームを誇り、平安時代末期からすでに研究が始まっていた記録もある。およそ千年にわたって読み継がれ、研究史は幾重にも積み重なってきたが、それでもまだ「未踏の領域」が残されていた。そこに光を当てたのが、飯田さんだ。テーマは「邸第呼称(ていだいこしょう)」。物語に登場する「家(邸第)」の呼び名に注目した研究だ。


同じ家なのに、呼び名が変わる。その謎をきっかけに研究の道へ

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『源氏物語』には、人の名前がほとんど直接出てこない。代わりに官職名、地名などで呼ばれることが多く、同じ人物でも立場や巻によって呼称が変化するのが特徴だ。そのため、読み手は「いったい誰のこと?」と迷うことも多い。そうした背景から、これまでに人物呼称の研究が進められてきた。名前が変わるのは人物だけでなく家も同様。飯田さんは、「院(いん)」「宮(みや)」「殿(との)」という三語の用例に着目。同じ家を指しているはずなのに、ある場面では〈二条院〉、次の場面では〈殿〉と呼び替えられる謎。意外にも先行研究は見当たらなかった。飯田さんがこのテーマに出会ったきっかけは学部時代の演習でのことだった。「なぜ同じ家なのに呼び名が変わるのか」。そんな疑問が、飯田さんを文学研究の世界へいざなった。


手作業から始まった旅―言葉の奥に広がる、千年前の暮らし

飯田さんは全54巻ある物語をまずは目で読み、文中に登場する「院・宮・殿」の出現箇所を紙に書き写し、誰がどのような文脈で、誰に、どのように呼ばれているのかを洗い出し、一つひとつ記録していった。その数、およそ400例。後に電子検索ソフトを用いて見逃しがないかを再検証し、さらに当時の歴史資料や地図と照らし合わせて裏づけを取った。独自のデータベースを作り上げ、そこから呼称のルールを描き出していったのだ。一見すると、地道で気の遠くなるような作業だが、飯田さんにとってそれは苦ではない。「言葉・文字一つひとつの書かれ方や背景に向き合う過程が楽しい」と好奇心を膨らませる。研究成果は明快だった。「院」は上皇の御所、「宮」は皇族邸、「殿」は大臣級の臣下邸という秩序がほぼ一貫して守られていたのである。さらに物語が進むと、邸宅の所有者が代替わりし呼称が変わる事例も発見した。つまり、呼び名の変化は単なる気まぐれではなく、物語世界に秩序と時間の流れを刻み込む仕掛けだったのだ。この仕掛けにより、当時の貴族社会に流れていた空気感が表現されているのではないかと飯田さんは見ている。従来、人物呼称にばかり光が当たってきた『源氏物語』研究に、「邸第呼称」という新たな視座を導入した功績は大きく、飯田さんは中古文学会賞を受賞。研究のおもしろさは、言葉の細部から平安時代の世界が立ち上がってくることだという。「文字や言葉を丁寧に紐解いていくと、千年前の人々が暮らしていた街並みや生活が見えてきます」と目を輝かせる。呼称を数々の歴史資料に重ね合わせると、平安京の住宅街や土地の価値まで浮かび上がり、文学が都市史と交差する。逆にいえば、この研究が歴史学の新たな動きを促す可能性すら秘めているのだ。


心の拠り所となった平安朝文学への恩返しを

もともとは「バリバリ働くキャリアウーマンになりたい」と思っていた飯田さん。高校時代は国語が得意だったものの、研究者を強く志していたわけではなく、漠然と「文系だから」という理由で文学部に進学した。早くから就職活動にも励んだが、気持ちが沈む時期もあったという。そんな時に出会い、心を震わせる面白さに「救われた」という『うつほ物語』。次はこの物語を研究したい、と目を向けている。物語の力強さ、豊かで奥深い表現に心惹かれると同時に、揺れがちな自分の心を支えてくれる拠り所ともなった平安朝文学。一千年、読まれ続ける「強さ」に敬意を払い、研究者として物語を深く正確に読み解くことで、恩返しをしたいという想いがある。非常勤講師として教壇に立つ際は、古典文学の読み方やおもしろさ、歴史学や都市史との結びつきなどを学生たちに伝えている。物語に耳を澄ませ、研究者として、そして教育者として歩みを続ける姿勢は、しずかな情熱に満ちている。

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2025年10月10日