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「透明人間」を切り口に テクノロジーと物語の緊張関係を追いかける

時間、空間を見通す比較文学の楽しみ

文学研究科・准教授・橋本順光

「透明人間」の物語は、古代ギリシャに由来する秩序破壊の物語と、近代化が引き起こした疎外の物語の二つの系譜が確認できる。 世界で語り継がれていくうちに、両者はどう変容していったのか。 英国地域研究、比較文学の専門家である橋本順光准教授が、 「科学技術を先取りする人間の想像力」に焦点を当てて 「透明人間」を読み解いた。

「透明人間」を切り口に テクノロジーと物語の緊張関係を追いかける

ルーツは「悪をおかす者」

古代ギリシャに伝わるギュゲスの逸話が、透明人間のルーツ。羊飼いのギュゲスが、体が透明になる指輪を手に入れて王妃を奪い、王位をも奪うという話が、プラトンの『国家』(紀元前4世紀)に出てきます。
一方、東洋では『龍樹菩薩伝』(5世紀頃・中国)が原型です。姿を隠す術を得た龍樹は後宮に忍び込み、妃たちを辱めます。この話は日本にも伝わり、「天狗の隠れ蓑」などにも影響を与えました。龍樹はインドの高僧ですし、透明の男が王権や王統を脅かすという発想は共通なので、ひょっとしてギュゲスと関係あるのかもしれません。
その後、「透明人間」は、長い間、我々が普段の生活では体験できないような「のぞき趣味・全能感」を表現するものとして浸透します。

テクノロジーの発達と物語の進化

近代の作品としては、H・G・ウェルズの『透明人間 Invisible Man』(1897)が有名です。屋根裏の天才科学者のような主人公の名前は「グリフィン」。これは空と地の王権を象徴する怪物グリフォン(鷲の上半身と翼を持ち、ライオンの下半身を持つ)にちなんでいて、実際、彼は独裁者になろうとします。ギュゲスの伝説が、レントゲンの発見など当時のめざましい科学の進歩によって実現するのではというわけです。

視線が素通りするガラスの二面性

その点で、当時、大きく発展したガラスという存在が、「透明人間」を探るうえで重要なファクターになります。1851年、ロンドン万博の会場となった水晶宮は、大量のガラスを使った現代のビルの原型となるような建物でした。同時に窓への税金が廃止され、一般の人もガラス窓のある家を建てられるようになります。太陽の恵みを受けつつ、冷たい風はさえぎり、外を眺められるガラスは、科学と人類が調和する輝かしい未来のシンボルとして、大変もてはやされました。

ところが、H・G・ウェルズと同時代人のトマス・ハーディは、そのガラスを「疎外」のメタファーとして用いていたのです。『日陰者ジュード Jude the Obscure』(1895)に出てくる労働者階級の主人公は学問にあこがれ、環境を変えれば人生が変わると信じて大学近郊に住みます。しかし、そこでも「ガラスのように視線が自分を通り越してしまう」悲しみを味わうのです。この小説には「相手にされない存在」としての、「透明人間」という新たな系譜の始まりを見ることができます。

科学が進歩し、近代化が進んだおかげで、自由な機会が手に入ったぶん、格差は広がり、疎外される人も大勢出てきました。ガラスで外を見下ろす人は、同時に外から恨みがましい視線にさらされているかもしれない。そんな不安をウェルズは物語にし、ハーディは、人々がガラスのように無視されてしまう疎外を見抜いたのです。

アメリカでも、日本でも

その後の文学のなかでは 、ラルフ・エリソンの『見えない人間Invisible Man』(1952)が注目されます。題名はウェルズといっしょですが、系譜としてはハーディを引き継いでいます。アフリカ系アメリカ人である主人公は冒頭で、「僕は見えない人間である……僕の姿が見えないのは、単に人が僕を見ないだけのこと」と語ります。この物語は、人間として扱われなかった「黒人」の側からの「異議申し立て」となっているのです。

一方、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』には、主人公のび太の「透明になって好き勝手をしたい」という願いをかなえるために、かぶると石ころのように相手にされなくなる「石ころ帽子」という道具を渡す話があります。『石ころ帽子』(1974)はハーディではなく、おそらく山本有三の『路傍の石』をヒントにしたのでしょうが、しかし、期せずしてハーディ型とウェルズ型の「透明人間」とが見事に一体化しているのです。ちょうど生物の「相似」のように、起源や地域が異なるのに、偶然、同じ物語が出現することがあります。そんな突然変異を見つけるのも比較文学研究の醍醐味ですね。

ネット普及と「透明人間」

1990年代まで、透明人間の物語はウェルズ型の方が多かったのですが、2000年ごろを境にハーディ型に逆転しました。それはITの普及と重なります。インターネットが浸透した昨今、いわゆる「のぞき趣味」的な「匿名性による閲覧」は、むなしい「全能感」とともに、ある程度実現してしまいました。つまり、ウェルズ風の物語はすでに実現してしまったと言えるのかもしれません。

代わって「相手にされない」疎外感の方が、いまや小説だけでなく、漫画、歌、SNSなどのメディアを介し、皮膚感覚に根ざした言葉で語られるようになっています。エリソンや先輩作家のリチャード・ライト、日本なら『アーロン収容所』(1962)を読めば、たとえば電車の中で化粧をする女性への男性の違和感は、自分が男として対象外とされているためなのがよくわかります。最近では、漫画の『闇金ウシジマくん』が、そんな痛みをこれでもかと描いています。私は子供のころ『石ころ帽子 』 に漠然と恐怖して以来、こうした小説が気になってきたんですが、作者の真鍋昌平さんも同じ体験をしたのかもしれません。

人々の不安、脅威を先取り

比較文学は物語や文学の系統樹をつくる仕事だと思います。今回は「透明人間」という切り口で、時代・国境を越えた物語の系譜を整理してみました。

物語には、テクノロジーの発達に対する人々の不安、それがもっているかもしれない脅威が先取りして現れます。逆に物語が新しいテクノロジーの誕生に影響を与えることもあります。

テクノロジーと物語は、不即不離の関係といえます。適度な緊張関係はこれからも続くことでしょう。それを追いかけ、解明するのも、比較文学研究のおもしろさですね。

(本記事の内容は、2013年6月大阪大学NewsLetterに掲載されたものです)