2017年3月3日

本研究のポイント

・スピンアイスと呼ばれる磁性体について中性子散乱実験とその解析を行い、結晶構造の乱れを考慮することで観測された量子スピン液体※1的な振る舞いを説明できることを示した。
・従来は量子スピン液体の形成を阻害すると考えられてきた構造の乱れが、逆に量子揺らぎを増強することで、量子スピン液体を安定化する可能性を提示した。
・量子スピン液体を実現する新たな道筋を提示したことによりその性質の理解が進み、量子スピン液体を使った新しいスピントロニクス、量子コンピュータへの応用が期待される。

概要

水を冷やすと氷へと固化するように、通常の磁性体を絶対零度まで冷やすと、スピンは向きの決まった固体状態となります。一方、最近の磁性体の研究において、スピンを特殊な配置に並べることにより、低温においても量子揺らぎのためにスピンが固化せずにいつまでも液体の状態が保持されるという奇妙な状態が実現することが理論的に予言され、量子スピン液体として大きな注目を集めています。しかし、このような量子スピン液体状態は一般に不安定であり、磁性体の結晶構造の僅かな乱れによってスピンはガラス状態へと凍結すると考えられてきました。今回、東京大学物性研究所(所長 瀧川仁)の中辻知教授らの研究グループは、大阪大学、スタンフォード大学、ジョンズ・ホプキンス大学、米国国立標準技術研究所と共同で、パイロクロア格子※2(図1)を持つ量子スピンアイス※3(図2)磁性体Pr2Zr2O7に対する中性子散乱実験およびモデル解析を行い、従来の定説に反して構造の乱れが量子揺らぎを増強することによって量子スピン液体状態を安定化する場合があることを見出しました。この成果は、量子スピン液体状態を示す物質の探索に新たな指針を与えるものであり、その性質の解明に大きく寄与すると期待できます。

本研究成果はアメリカ物理学会の速報誌「Physical Review Letters」(3月3日(金)オンライン版)に掲載されました。

研究の背景と経緯

水を高温から冷却していくと、熱エネルギーによるH2O分子の運動は徐々に抑制され、気体(水蒸気)から液体(水)、そして最終的には固体(氷)へとその状態を変えます。同様に、通常の磁性体を絶対零度まで冷やすと、スピンは向きの決まった固体状態となります。一方、最近の磁性体の研究において、スピンを特殊な配置に並べることにより、低温までスピンの向きが決まらずにいつまでも液体の状態が保持されるという特異な状態が現れることが理論的に予言され、量子スピン液体として大きな注目を集めています。その有力な探索の舞台として知られているのが、スピンアイスと呼ばれる磁性体の関連物質です。スピンアイスは、パイロクロア格子上に配置されたイジングスピン※3が、スピンに平行方向の強磁性相互作用のみを持つ場合に現れる古典的な磁気状態で、巨視的縮退※4を残したままスピンが凍結するという特異な性質を持ちます。さらに最近では、何らかの方法(例えばスピン垂直方向の交換相互作用)で量子揺らぎを増強しアイス状態を融解することで量子スピン液体が実現するという理論的提案がなされ、これを検証する実験的研究が世界各国で精力的に展開されています。しかし、これまでにスピンアイスをベースとした量子スピン液体の候補物質はいくつか見出されてきましたが、どのような起源で量子スピン液体的な振る舞いが生じているのかは分かっていませんでした。

研究内容

本研究グループは、パイロクロア格子上のスピンが示すトポロジカルな量子相の開拓を進めてきました。そのなかで、パイロクロア磁性体Pr2Zr2O7の磁性を担う3価のプラセオジウムイオン(Pr3+)が、アイスルール※3(図2(a))に従うスピン配列を示すこと(図2(b))、さらには、強い量子揺らぎにより最低温においてもスピンが完全には凍結せず量子スピン液体的に振る舞うこと(図2(c))を見出してきました。そこで本研究では、スピンアイス関連物質Pr2Zr2O7における強い量子揺らぎの起源を調べるため、大型の単結晶試料を合成し、これを用いて絶対零度近傍(50ミリケルビン)に至るさまざまな温度および磁場下における高分解能非弾性中性子散乱実験を行いました。

その結果、低エネルギー領域において、図3(a)に示すような波数に依存する非弾性中性子散乱パターンが観測されました。過去の研究においても観測されたこのパターンは、本実験で用いた単結晶においてもスピン間の強磁性相互作用によるスピンアイス相関が存在していることを意味しています。一方、図3(c)に示すように、より高いエネルギー領域においては、波数に依存しない非弾性中性子散乱成分が存在することが新たに判明しました。本物質の磁性を担うPr3+イオンはノンクラマースイオン※5であるため、その磁気的性質は結晶構造の乱れに極めて敏感です。その結果、理想的なパイロクロア構造におけるPr3+イオンは磁気的な二重項 としての性質を有する一方、構造の乱れがある場合はこの二重項が2つの非磁性一重項状態に分裂すると考えられます。波数に依存しない非弾性中性子散乱の存在は、構造の乱れによる二重項の分裂が生じていることを強く示唆しています。この構造の乱れによる二重項の分裂は、Pr3+に量子揺らぎを促す実効的な横磁場がかかっているものとして定式化することができます。そこで、古典スピンアイス状態をもたらす強磁性相互作用に、乱れに起因する実効的横磁場を加えたスピンモデルを用いて実験結果を解析したところ、全ての実験結果を合理的に説明可能であることが分かりました(図3(b)(d))。このことは、今回用いた試料中に存在する結晶構造の乱れが、量子スピン液体状態を安定化している可能性を強く示唆しています。

今後の展開

今回、スピンアイス関連物質Pr2Zr2O7において、結晶構造の乱れにより量子スピン液体状態が安定化している可能性を実験的に見出しました。従来の研究では、構造の乱れはスピンのガラス状態への凍結を引き起こし、量子スピン液体の形成を阻害するものと考えられてきました。この定説に一石を投じる今回の成果は、量子スピン液体を示す磁性材料の開発に新たな指針を与えるものと期待できます。

今回見出した乱れによる量子スピン液体と、純良試料で期待される量子スピン液体の相違点を明らかにすることは、量子スピン液体の全容を解明する上で大変重要です。最近の研究により、PrとZrの組成比を制御することによって、パイロクロア構造の乱れを広範囲に制御できることが分かってきました。組成比の精密制御により乱れのより少ない試料を合成し、これを用いた詳細な物性測定を行うことで、量子スピン液体の理解が飛躍的に向上すると考えられます。これにより、将来的には、量子スピン液体のエンタングルメントを利用したスピントロニクス、量子コンピュータの次世代デバイスへの応用に繋がるものと期待されます。

発表雑誌

米国物理学会誌「Physical Review Letters」
論文タイトル:Disordered Route to the Coulomb Quantum Spin Liquid: Random Transverse Fields on Spin Ice Pr2Zr2O7
著者:J.-J. Wen*, S.M. Koohpayeh, K.A. Ross, B.A. Trump, T.M. McQueen, K. Kimura, S. Nakatsuji*, Y. Qiu, D.M. Pajerowski, J.R.D. Copley, and C.L. Broholm*

用語解説

※1 量子スピン液体
磁性を担うイオンに束縛された各電子のスピンの向きが、時間的にも空間的にも一定の方向に留まらず、揺らいでいる状態は、スピン液体と呼ばれている。特に、量子揺らぎのためにスピンが固体にならず、絶対零度まで液体である場合、量子スピン液体と呼ばれる。

※2 パイロクロア格子
図1のように、正四面体が頂点共有3次元的ネットワークを形成した格子をパイロクロア格子と呼ぶ。理想的なパイロクロア磁性体では、磁性イオンが各正四面体の頂点に位置する。しかし、本研究で用いたPr2Zr2O7の試料においてはPr3+イオンが理想的な位置からずれており、これが量子スピン液体を安定化させていると考えられる。

※3 スピンアイス、イジングスピン、アイスルール
常圧において氷はパイロクロア構造をとり、プロトン(H+)イオンが正四面体の頂点から少し変位している。その変位の向きは、図2(a)に示すように2-in 2-outの構造をとっており、アイスルールと呼ばれる。これは共有する2つの正四面体の中心に位置するO2-イオンのうち、どちらの向きに水素結合を形成するかによって決まっている。同様な状況は、H+イオンの変位を上下方向にしか向かないイジングスピンに置き換えたスピンアイスと呼ばれる磁性体にも現れる。正四面体の各頂点にその重心方向に向くイジングスピンを配置し、それらの間に強磁性の相関を考えると、イジングスピンは氷と同じ2-in 2-out状態を取る。

※4 縮退
1つの系に同じエネルギーを有する状態が2つ以上存在すること。スピンアイスにおいては、最低エネルギーを持つ2-in 2-out状態を満たすスピン配列が無数に存在するため、巨視的縮退が生じる。

※5 ノンクラマースイオン
結晶中の磁性イオンには周囲の陰イオンの作る静電場(結晶場)が作用しており、その対称性が低下するにつれて磁性イオンの電子状態の縮退は解けていく。しかし、奇数個の電子を持つ磁性イオンの場合、時間反転対称性に基づくクラマースの定理により、結晶場の対称性をどれだけ下げても外部磁場をかけない限り必ず二重縮退が残る。このような磁性イオンをクラマースイオンと呼ぶ。この二重縮退はスピンの上向きと下向きの縮退に対応するため、クラマースイオンは一般に磁性を有する。これに対して、クラマースの定理が成立しない偶数個の電子を持つ磁性イオンはノンクラマースイオンと呼ばれ、結晶場の対称性によっては磁性を持たない一重項電子状態を取ることがある。そのため、ノンクラマースイオンの電子状態ひいては磁性は、結晶場の低対称化をもたらす構造の乱れに極めて敏感である。

添付資料

図1 パイロクロア格子。

図2 (a)氷(アイス),(b)スピンアイス,(c)量子スピンアイスの図
氷におけるプロトン変位とスピンアイスにおける磁気モーメントは1対1に対応しており、ともに2-in 2-outのアイスルールを満たす。この古典的に凍結した状態に量子力学的横磁場が加わることで量子揺らぎが増強された状態は量子スピンアイスと呼ばれ、異なる2-in 2-out状態が重ね合さった量子スピン液体状態になると期待される。今回の研究で、実は乱れが量子力学的横磁場を加えることが明らかになった。

図3 絶対零度近傍(50ミリケルビン)における非弾性中性子散乱強度マップ
(a)(b)低エネルギー領域(0.2meV)における実験および計算結果。散乱強度は波数に強く依存し、またそのパターンはスピンアイス相関を持つ磁性体に特有のものである。(c)(d)高エネルギー領域(0.55meV)における実験および計算結果。散乱強度は波数に依存しない。

参考URL

基礎工学研究科物質創成専攻物性物理工学領域 木村研究室
http://www.crystal.mp.es.osaka-u.ac.jp/index.html

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