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光の量子的性質を利用して 解読されない暗号を創る

長距離通信めざし、波長変換技術を完成

基礎工学研究科・教授・井元信之

井元信之教授が取り組んでいるテーマは「量子情報処理」。この分野では、既存のコンピュータをはるかにしのぐ情報処理能力を持った量子コンピュータの実用化がとりざたされているが、より早い実現が期待されているのが「プライバシー面で絶対に安全な『量子暗号通信』」だ。井元教授らのグループは、それを実用可能にする長距離通信をめざし、量子情報を量子メモリーと通信回線の間で自由にリンクさせるための波長変換技術と量子雑音除去技術を完成させ、世界から注目されている。

光の量子的性質を利用して 解読されない暗号を創る

量子コンピュータが暗号解読

「量子暗号」の実現が待たれる背景には、どんな事情があるのですか?

量子力学の理論を工学に応用する可能性が追究される中で、1984年にはIBMの研究によって「量子暗号」が提案されました。しかし当時は、そんなものが役に立つのかどうかも定かでなかったので、通信手段がないという理由から研究は止まってしまいました。一転、脚光を浴びるようになったのはその10年後から。米国のベル研究所が、「量子コンピュータが完成すれば、今までとは比較にならない短時間で情報処理が行えるため、既存の暗号(公開鍵暗号)はすべて解読される」ということを数学的に証明したことによるものでした。

現在でもよく使われている「公開鍵暗号方式」では、「大きい数の素因数分解には既存のコンピュータでは天文学的時間がかかる」ということが、暗号解読が現実的に不可能とする根拠になっています。しかし、情報処理の仕組み自体が全く異なり、大量の素因数分解を一挙にやってのける量子コンピュータは、この種の暗号を解くことは大の得意なのです。それが分かって、専門家の間では騒然となりました。量子コンピュータを使えば、国家の最高機密も解読されてしまうからです。

光は波であり、粒である

そこで、「量子暗号」の価値が見直されたのですね。

幸い97年、「量子暗号は量子コンピュータでも破れない」ことが証明され、量子暗号技術の実用化に向けて、研究が加速することになりました。

量子暗号は近距離実験はできていますが、実用に向けての鍵を握るのは、遠隔地との量子通信を可能にする工学的な進歩だと思います。

現行の暗号は、「情報を盗むことはできても解読作業に手間がかかるため、秘密は保持できる」ということで安全性を確保してきました。それに対して量子暗号では、盗聴そのものができません。強引に盗聴しようとしても、盗聴の事実が発信者、受信者に知られてしまいます。そんなことができるのは、量子暗号が「光は波であり、同時に粒である」という光の量子的性質を利用しているからです。

量子の性質について、説明してください。

まず光の波としての性質は、細い2本のスリットに光を当てる実験をすれば干渉波として目で見ることができます。次に「光は粒である」ですが、光も電気と同じようなものだとイメージしてください。電気の粒が電子であるのと同じく、光の粒は光子。こう思ってもらえたところで、光の代わりに電子を使った実験を紹介します。たくさんの電子を細いスリットに通すと、光の時と同じく連続的な電子の干渉波が現れます。ところが、たった1個の電子を同様にスリットに通しても、やはり連続的な干渉波が現れるのです。

この1個の電子を検知器などを用いて観測してしまうと、なぜか性質が変わってしまいます。連続的な干渉波は現れず、1個の電子の「粒」がスリットを通った形跡しか見られません。すなわち、電子は粒子であると同時に、波の性質を持っているが観測しようとすると波の性質は失われ、粒としての性質しか持たなくなるということです。光子の場合も同じです。

観測すると光の性質が変わる

光の性質が、どのようにして量子暗号に応用されているのですか。

量子暗号を盗み出すことができないのは、まさに「観測すると光の性質が変わる」という原理を利用しているからです。量子暗号通信では、まず相手に量子的な乱数、つまり暗号を解くための鍵を送ります。もし情報が盗まれたならば、通信中の光の状態にある種のゆがみが出て、「盗まれたかもしれない」と考えられるのです。一部でも盗まれていると分かったら、新しい乱数を再送します。これにより、誰にも盗聴されず、相手に暗号化した情報を送ることができるのです。

昨年は、長距離量子暗号通信の実現につながる波長変換技術を発表されましたね。

私は35年前に、電電公社(現NTT)で光ファイバー通信の開発に携わっていました。「光ファイバー通信なんて本当に実現できるのか」と思われていましたが、今では膨大な情報が受送信されています。ところが、光ファイバーの性能は、15㌔も進むと能力が半分になってしまうのです。この性能低下をどうすればいいのか。問題を解決したのは「中継」でした。いったん受けた光を電気信号に変換し、また強い光にして送り出すのです。

既存のコンピュータ通信ならば、この方法でよかったのですが、量子通信では、この方法を採用することはできません。なぜかというと、たとえ性能を向上させるためであっても、電気信号に変換するという行為を行うと、もとの性質が維持されなくなってしまうからです。これを解決するには、一度電気信号に変えずに量子通信を行うための「量子テレポーテーション」を用いた量子中継の技術が必要となります。

「量子テレポーテーション」を利用

量子テレポーテーションとはどんな方法ですか。

この方法には、「量子もつれ」という量子の性質を利用します。量子もつれという状態にある一組の光は、この一方に別の光をぶつけると、その光がもっていた情報が、離れたところにある光にそっくり移る「量子テレポーテーション」という現象を起こします。私たちは雑音下でも動作する量子テレポーテーションの実験に成功しています。また、光ファイバー通信波長に向けた波長変換については、人工結晶PPLN(周期分極反転ニオブ酸リチウム)を波長変換素子として用い、ノイズを低減することで、量子的な性質をほとんど変えないで波長を変換することができました。これらの技術は遠くまで量子情報を送信する上で、実用上欠かせなくなるでしょう。

物理学の楽しみについて、メッセージをお願いします。

数学的に「証明できた、できるはず」の「できる」と、物理的に「実現する」の「できる」のは、別のことです。数学的に可能だと証明されたものでも、「どうやってできるか」を証明するのは、物理学者の仕事なのです。しかも現実条件下での実現を考えると、それを扱う数学に新しい展開を誘発することもあり、そのやりとりがまたわくわくする相互作用なのです。また、関係ないと思っていた事項が急に関係してきて一般論の地平線を広げる、こういう点も醍醐味です。

量子情報処理の世界で、数学的に可能性が証明された技術は数あります。それらの中で目下のところ、量子暗号による「無条件で安全なプライバシー通信」は物理的に可能な技術であり、実現も間近だと思っています。本当にこれからが楽しみです。


(本記事の内容は、2012年9月大阪大学NewsLetterに掲載されたものです)