組織・臓器の発生プロセスのエラー回避機構を発見

組織・臓器の発生プロセスのエラー回避機構を発見

がんや先天性疾患などの発症機構理解に新たな視点

2019-10-17生命科学・医学系

研究成果のポイント

・動物胚の発生 過程で誤って生じた異常な「不良細胞 」が「モルフォゲン勾配 ノイズキャンセリング」という分子システムによって感知、除去されることを発見。さらに、このシステムが健康な胚発生の確実な遂行に必須であることを解明。
・発生過程における異常細胞から先天性疾患が発症するメカニズムや、正常細胞に変異が生じた異常細胞からがんが発症するメカニズム解明、並びに検査・診断法の確立や治療への応用に期待。

概要

大阪大学微生物病研究所の龝枝佑紀助教、石谷太教授(群馬大学生体調節研究所兼任)、群馬大学大学院医学系研究科博士課程の小神野翔平氏らの研究グループは、九州大学生体防御医学研究所の大川恭行教授らとオリンパス株式会社との共同研究により、動物組織の健康性が、不良細胞を排除する「モルフォゲン勾配ノイズキャンセリング」というシステムにより支えられていることを突き⽌めました。本研究成果は2019年10月17日(木)18時(日本時間)にネイチャー姉妹誌「ネイチャーコミュニケーションズ」に掲載されました。

研究の背景・内容

動物の発生や再生の過程では、細胞が分裂し膨大な数の細胞を生み出しますが、その過程では突発的な異常がある一定の頻度で生じます。これまで、動物組織がこのような異常を回避・克服し、健康性を維持する能力を備えていることは予見されていましたが、この異常回避を担うメカニズムの実体はほとんど分かっていません。

今回、研究チームは、生きた組織の細胞や分子の動態を観察するイメージング解析 に適したモデル脊椎動物ゼブラフィッシュ を用いて、異常回避システムの実体の一つ「モルフォゲン勾配ノイズキャンセリング」を発見しました (図1) 。このシステムは、動物胚の発生過程で突然生じた不良細胞を、モルフォゲン勾配というセンサーを使って感知し、細胞死 によって取り除く=ノイズをキャンセルすることで、胚組織を構成する細胞の質や機能を適切に維持します。

図1 モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングは胚に生じた不良細胞を除去し,胚を構成する細胞の質と機能を適切に維持することで,健康な個体構築を支える

研究背景の詳細

私たちの身体は多様な組織・臓器から構成されており、これらの正常な活動が私たちの健康を支えています。組織・臓器が正常に機能するためには、特定の機能を備えた細胞を適切な位置に適切な数だけそれらの内部に配置する必要があります。このような細胞配置(組織パターン)は、モルフォゲンと呼ばれる細胞間情報伝達分子群の活動によって作り上げられます。例えば、哺乳類を含む脊椎動物の初期胚(発生初期の赤ちゃん)の前後軸に沿ったパターン(前後パターン)の形成は、モルフォゲンの一つWnt(ウイント)分子によって制御されます (図2、オレンジ色の丸) 。まず、前後パターン形成を行う初期胚では、胚の後方組織からWnt分子が分泌されます。Wntの分泌源に近い後方領域の細胞では、高濃度のWntにさらされた結果、Wntによる情報入力が強く起き、一方で、前方に位置する細胞ではWnt濃度が低いためにWntによる情報入力がほとんど起きません。結果として胚の前後方向に沿ってWnt情報強度の勾配(モルフォゲン勾配)が形成され、この勾配に沿って各細胞が自身の位置情報を把握し、その位置に適合する運命を選択します。より具体的には、初期胚神経組織の後方に位置する細胞では、強いWnt情報入力により、Wnt情報(Wntシグナル)が細胞膜を超えて細胞質、そして核内のDNAに“強く“伝達され、結果、後方神経組織に相応しい細胞(脊髄など)の前駆細胞に分化するための遺伝子発現変化が誘導されます。一方で、初期胚神経組織の最前列に位置する細胞では、Wnt情報入力が全く入らず、Wnt情報伝達が起きず、結果、核内のDNAが「細胞が組織最前列に位置すること」を認識し、前方神経組織に相応しい細胞(終脳など)の前駆細胞に分化するための遺伝子発現変化が誘導されます。このようにして、初期胚の前後に沿った規則正しい細胞配置が作り上げられます。また重要なことに、Wntモルフォゲン勾配は、初期胚だけでなく、構築途上の脳や肺、⼼臓、肝臓、腎臓など種々の組織で形成され、それぞれの組織に適切な細胞配置を生み出します。さらに、再生や細胞の入れ替わりが起こる成体組織(肝臓や腸上皮など)でもWntモルフォゲン勾配が形成され、組織部位に適した運命(増殖や機能細胞への分化など)を細胞に誘導し、組織の構造を維持します。このように、モルフォゲン勾配は組織の広範囲に連続した位置情報を与え、組織の構造を支えており、それ故、健康な組織を確実に作り出し維持するためにはモルフォゲン勾配の正確な形成・維持は必須と考えられています。事実、Wntの情報伝達異常は、発生異常(ヒトでは先天性疾患)や、がんや精神疾患など種々の疾患の原因となることが知られています。しかし一方で、実際の発生・再生組織におけるモルフォゲン勾配は乱れやすい状況にあります。例えば、発生・再生中の組織では、活発な細胞増殖や細胞移動が起きており、これらはモルフォゲン分子の拡散や情報伝達に影響を及ぼすと推測されます。また、細胞増殖が活発な状況では、遺伝子情報の複製エラーの発生とそれに伴う遺伝子変異細胞の発生が起きやすくなると考えられますし、外界からの宇宙線や放射線、環境変化も変異細胞の出現を引き起こしうると考えられます。事実、近年の研究により、発生中のヒト胚においても遺伝子変異細胞が出現することが示されています。このようにして生じた変異細胞では、細胞機能の一部に異常が生じてしまい、モルフォゲンの情報伝達や運命決定などを正常に実行できない可能性があります。このようなことから、実際の発生過程ではモルフォゲン勾配は乱れやすいと推測されています。したがって、動物組織はモルフォゲン勾配の乱れ(ノイズ)を修復するシステムを有するであろうと考えられてきました。しかしながら、これらはあくまで推測の域を出ておらず、「モルフォゲン勾配が本当に乱れやすいのか」、そして「モルフォゲン勾配のノイズを修復するシステムが本当に存在するのか」は不明でした。これらを調べるためには、生きた動物組織における生体分子の細胞内情報伝達(モルフォゲンの情報伝達)の活動を定量的かつリアルタイムで測定する技術が必要でしたが、これまでの技術ではこれを実行するのは極めて困難でした。

一方、石谷教授のグループは、モルフォゲンの機能と制御機構を継続して研究してきました(Ishitani et al., Nature 1999; Ishitani et al., Nature Cell Biology 2005; Ota et al., EMBO J 2012;Shimizu et al., Cell Reports 2014 など)。近年は動物の発生・再生過程におけるモルフォゲンの微細な制御機構を明らかにするためにモルフォゲンの情報伝達の可視化に取り組んでおり、クラゲ由来の蛍光タンパク質GFPを利用してWntモルフォゲンの情報伝達活性を緑色蛍光に変換して可視化する技術を開発しました(Shimizu et al., Dev Biol 2012)。さらに、ゼブラフィッシュという胚の体が透明で体外で発生する小型魚類にこの技術を組み込むことで、動物の発生過程におけるWntモルフォゲンの情報伝達を可視化することに成功しました。しかしながら、GFPを使った情報伝達の可視化はリアルタイム性と定量性が欠けており、実際の生体内の情報伝達の正確な把握が難しいという問題がありました。

図2 モルフォゲン勾配による初期胚の前後パターン形成

研究内容の詳細

1)発生過程の胚組織ではモルフォゲン勾配を乱すノイズ細胞が出現するが、ノイズ細胞は細胞死により除去され勾配の乱れは修復される

石谷教授らは、情報伝達のリアルタイム定量可視化を目指し、ヒカリコメツキムシ由来の発光酵素Elucを独自改変した超短寿命発光酵素Eluc-CPを用いてゼブラフィッシュにおけるWntモルフォゲンの情報伝達を「発光」に変換して可視化する技術を開発しました。さらに、オリンパス社との共同研究により、ゼブラフィッシュ胚におけるWntモルフォゲンの細胞内情報伝達のリアルタイム定量可視化に成功 しました。この可視化により、生きた動物組織におけるモルフォゲン勾配の動態把握が可能になり、これまで存在証明されていなかった「発生過程におけるモルフォゲン勾配の乱れ」が実際に生じることが確認できました。具体的には、前後パターン形成を行うゼブラフィッシュ初期胚におけるWntモルフォゲンの情報伝達をリアルタイム可視化した結果、情報伝達強度が弱くあるべき前方組織で情報伝達強度が異常に高い細胞(ノイズ細胞)が生じたり、逆に情報伝達強度が強くあるべき後方組織で伝達強度が異常に低いノイズ細胞が生じることがわかりました。また、このノイズ細胞は、胚ごとに出現頻度や出現場所、乱れの程度がバラバラであり、プログラムされていないエラーとして生じたものであると考えられました。さらに、このノイズ細胞の動態を追跡したところ、細

胞死(アポトーシス)を起こして組織から除去され、結果としてモルフォゲン勾配の乱れが修復されることがわかってきました (図3) 。

図3 Wntモルフォゲン勾配を乱すノイズ細胞は細胞死を介して除去され,結果として勾配の乱れが修正される

2)ノイズ細胞は隣接する正常細胞により感知されて死を誘導される

では、ノイズ細胞はどのようなメカニズムで除去されるのでしょうか?石谷教授らは、まず、イメージング解析により、細胞表面に存在する細胞接着分子である「カドヘリン」を介したノイズ細胞と隣接正常細胞の相互作用がノイズ細胞の細胞死を導くことを発見しました (図4) 。具体的には、胚組織においてはWnt情報伝達(Wntシグナル)によって細胞膜上のカドヘリン分子の量がコントロールされており、Wntシグナルの強い後方組織の細胞ではその細胞膜上に多数のカドヘリン分子がリクルートされ (図4段の紫色の長方形) 、一方、Wntシグナルの弱い前方組織ではカドヘリンのリクルートが起こらず、膜上のカドヘリン分子の数が少ない状態になります。結果として、胚組織では、Wntモルフォゲン勾配に沿ってカドヘリンの量的勾配が形成されます。カドヘリンは、それ同士で結合する能力を持っており、カドヘリンを膜上に発現する細胞は、カドヘリンを介して接着することができ、また、細胞は膜上のカドヘリンの量で仲間を識別する能力を持っており、カドヘリンの量が同程度の細胞同士で集団を作る傾向があります。このため、ノイズ細胞が存在しない状況下では、胚組織の個々の細胞は隣の細胞とほぼ同程度のカドヘリンを膜上に持っており、互いが仲間であることを認識し合うことになります。しかし、場にそぐわないWntシグナル活性を持ったノイズ細胞が突発的に出現すると、そのノイズ細胞のカドヘリン量が変化し、結果としてノイズ細胞と隣接正常細胞の間でカドヘリン量の不適合が生じ、ノイズ細胞の出現が感知されます。このカドヘリンを介した感知を経て、ノイズ細胞の除去が起動されます (図4下段) 。

では、感知のあと、どのようにしてノイズ細胞が殺されるのでしょうか?石谷教授らは、少数細胞における遺伝子発現変化の網羅的解析(トランスクリプトミクス)の専⾨家である九州大学大川教授らとの共同研究により、殺されるノイズ細胞における遺伝子発現変化を解析し、その結果、ROS(活性酸素)が関与することを突き⽌めました (図4) 。具体的には、カドヘリンを介してノイズ細胞の出現が感知されると、転写制御分子Smad (図4の藍色の楕円) が活性化して核内に移行してDNAに結合し、ROSの産生を促進する遺伝子の働きをONにするとともに、ROSの産生を抑制する遺伝子(ROS抑制酵素Sephs1など)の働きを抑制し、細胞内にROSの蓄積が促されます。蓄積したROSは、細胞死を抑制し生存を支えるBcl2タンパク質の分解などを引き起こし、結果としてノイズ細胞はアポトーシスを起こして胚組織から除去されます。その結果、組織から不良な細胞が淘汰されるとともにWntモルフォゲン勾配が正常に回復します。

図4 ノイズ細胞は細胞表面分子カドヘリンを介して隣接正常細胞に感知され,細胞死を誘導される

3)モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングは正確な細胞パターン形成と健康な個体構築に必須である

石谷教授らの研究グループは、このモルフォゲン勾配の修復機構を「モルフォゲン勾配ノイズキャンセリング(morphogen gradient-noise cancelling system)」と名付けました。石谷教授らは、この機構の生理的な役割を確認するために、この機構が機能しないゼブラフィッシュを作製しました。具体的には、ノイズキャンセリングにおいてノイズ細胞で抑制されるROS抑制酵素Sephs1をゼブラフィッシュにおいて強制活性化させ、ノイズ細胞が生じてもノイズ細胞が殺されない状態を作り出しました。その結果、この状態では、発生過程のエラーで生じた「Wnt情報伝達を正常に行えないノイズ細胞」が胚に蓄積し、モルフォゲン勾配が大きく乱れるとともに、頭部の後側にできるはずの脊髄の前駆細胞が前側に生じたり、脊髄ができるはずの後方領域に前方に作られるべき脳の前駆細胞が生じました。また、発生の早期では、細胞の配置異常など外見からは気づけない軽微な異常しか生じませんでしたが、より発生が進むと、頭部の変形や腫瘍様の細胞塊の形成など、劇的な形態異常が生じました。このことは、モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングが正確なモルフォゲン勾配や細胞パターンの形成のみならず、病気の元になりうる不良な細胞を取り除くことで健康な個体構築に寄与することを示唆しています。

このように、本研究の当初の目標である「発生過程におけるWntモルフォゲン勾配が乱れやすいことの実証」と「モルフォゲン勾配の修復機構(モルフォゲン勾配ノイズキャンセリング)の存在証明」は達成され、さらに「そのメカニズム解明に成功」したことで、モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングが不良細胞の除去とその結果としての健康個体構築に寄与することを明らかにできました。

本研究成果の意義と社会に与える影響

本研究では、正常に機能し、病気になりにくい健康な組織・臓器を作り上げるには、不良細胞を自ら感知・排除する「モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングシステム」が必要であることを解明しました。

今後、本研究の進展により、発生過程で生じた異常細胞から先天性疾患が発症するメカニズムの解明や検査・診断法の確立、さらには治療への応用が期待できます。加えて、正常組織に生じた変異細胞からがんが発生するメカニズムの理解、予防法確立にも寄与する可能性もあります。

本研究成果の意義の詳細

1)先天性疾患のメカニズム解明や、成長後の病気になりやすさの原因の理解への寄与について

私たちの身体は、胚発生期および成長期に分裂増殖を繰り返すことで作り上げられます。つまり、成体を構成する細胞の質は、発生期・成長期に生み出される細胞の質に大きく依存します。しかし一方で、先述の通り、発生期・成長期では、複製エラーなどによって一部の遺伝子機能が破綻した不良細胞が生じやすい状況にあります (図1) 。今回の研究により、Wnt情報伝達を正常に行えない不良細胞はモルフォゲン勾配ノイズキャンセリングにより感知されて除去されることがわかってきました。また、発生・成長・再生する組織における細胞は、細胞の運命(増殖・分化・移動など)を適切に制御するためにWnt情報伝達のみならず多様な情報伝達を行っており、また細胞内の機能を維持するために糖代謝など様々な代謝活動を行っています。興味深いことに、これらの情報伝達や細胞内代謝の多くがWnt情報伝達と密に相互作用することが知られています。つまり、これらが機能破綻した細胞が出現した場合も、その細胞でWnt情報伝達の異常が起き、結果としてモルフォゲン勾配ノイズキャンセリングにより除去される可能性があります。つまり、発生プロセスでエラーとして生じた種々の不良細胞がモルフォゲン勾配ノイズキャンセリングにより除去され、これにより正常に機能する細胞で構成される健康体構築が支えられている可能性が考えられます。プロテウス症候群など発生時に生じた変異細胞に起因するヒト先天性疾患が多数知られていますが、これらの疾患の一部は、ノイズキャンセリングの機能低下の結果として生じている可能性が推測されます。また、近年のヒト患者のゲノム解析により、アルツハイマー病や自閉症など種々の脳疾患の患者の一部において、発生の初期に生じた変異細胞が原因となってそれらの疾患が生じることが示されつつあります。したがって、今後、モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングと先天性疾患や成体での脳疾患などの関連を詳細に調べることで、これらの疾患の発症メカニズムの新たな理解や、新たな診断法の開発につながる可能性があります。

また、近年の研究により、モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングと類似の不良細胞除去機構がマウス初期胚で機能することがわかってきています。具体的には、Myc遺伝子の発現量が低い細胞(細胞増殖能力などが弱い細胞)が隣接細胞によって感知され細胞死を誘導されて除去されることなどが分かっています。こうした細胞間コミュニケーションを介した正常細胞による不良細胞の除去は「細胞競合」と呼ばれ、動物組織が備える細胞の質向上機構(クオリティコントロールシステム)として近年注目されています。今回の研究により、モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングを介した不良細胞除去とこの低Myc発現細胞の除去が独立したシステムであることや、胚で起こる細胞除去の約3割がノイズキャンセリングを介したものであり、残り7割は低Myc発現細胞除去など別の細胞競合システムを介したものであることも示唆されています。おそらくノイズキャンセリングを含む複数の細胞競合システムがヒトを含む動物胚における不良細胞除去、細胞の質向上に寄与していると考えられます。

2)成体組織の恒常性維持やがん発生の新たなメカニズム理解への寄与について

冒頭で説明した通り、モルフォゲン勾配は前後パターン形成時の胚のみならず、構築・再生途上の多様な組織・臓器で形成されています。このことから、モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングによる不良細胞除去は発生・成長期のみならず成体の多様な組織・臓器で機能し、不良な細胞の蓄積を防いでいると期待されます。特に、大腸がんの抑制に寄与している可能性は大いに期待できます。ヒト大腸がんの80%でWntの情報伝達(Wntシグナル)が異常に活性化していることが知られており、大腸がんはWntシグナル活性が異常な少数の「がん原細胞」を起源として生じると考えられています。しかし、腸の基底部ではWntモルフォゲン勾配が形成されており、おそらく、腸基底部で突発的に生じたWntシグナル異常がん原細胞はノイズキャンセリングにより除去され、がんの発生を防いでいる可能性が期待されます (図5左) 。また、非常に興味深いことに、今回の研究でノイズキャンセリングの制御因子としてSmad(Smad4,Smad2)とカドヘリン(E-cadherin)が見つかってきましたが、これらは大腸がんの発生を抑制する因子「がん抑制遺伝子」であることも知られています。もしかしたら、Smadやカドヘリンの機能が破綻した腸基底部にがん原細胞が生じた際には、ノイズキャンセリングが働かずにがん原細胞が生き残って増殖し、そこから腫瘍形成が生じるのかもしれません (図5右) 。今後、成体組織におけるノイズキャンセリングの働きを調べていくことで、がん発生の新たなメカニズム解明や、がんの早期発見技術、がん予防技術につながっていく可能性があります。

図5 モルフォゲン勾配ノイズキャンセリングによる発がん抑制の可能性とその破綻による腫瘍形成

*1 Wntモルフォゲン勾配のリアルタイム定量可視化

生きた動物組織におけるWntモルフォゲン勾配の形成プロセスは、技術的な問題から、これまで可視化できていなかった。今回、石谷教授らはオリンパス社との連携により、世界で初めてこれに成功した。発光イメージングはこれまで、概日リズムの可視化や動物体内におけるがん細胞の分布などの検出によく使われてきたが、今回のように動物生個体における細胞内情報伝達の活動の可視化に使われた例はほとんどなかった。

*2 細胞死とWntモルフォゲンの同時可視化

発光と蛍光は生命活動のイメージング解析に頻繁に活用される。今回の研究では、発光を用いたWntモルフォゲン勾配の可視化だけでなく、ゼブラフィッシュ初期胚におけるアポトーシスの可視化にも初めて成功した。さらに、オリンパス社との連携により、これらの同時可視化にも成功した。これはおそらく、世界初の「生きた動物個体における細胞レベルの発光・蛍光同時イメージング」である。

特記事項

本研究成果は、2019年10月17日(木)18時(日本時間)にネイチャー姉妹誌「ネイチャーコミュニケーションズ」に掲載されました。

タイトル:“Cell competition corrects noisy Wnt morphogen gradients to achieve robust patterning”
著者名:Yuki Akieda, Shohei Ogamino, Hironobu Furuie, Shizuka Ishitani, Ryutaro Akiyoshi, Jumpei Nogami, Takamasa Masuda, Nobuyuki Shimizu, Yasuyuki Ohkawa, & Tohru Ishitani

なお、本研究は、科学研究費補助金、日本医療研究開発機構、CREST、公益財団法人住友財団研究助成、公益財団法人武田科学振興財団研究助成、九州大学生体防御医学研究所共同研究、基礎生物学研究所共同利用の支援を受け、NBRP ゼブラフィッシュ、ZIRC、名古屋大学ライブイメージングセンター、オリンパス社プログラマーJunsuke Konno 氏並びに Yasuhiro Kamihara 氏の協力を得て実施されました。

参考URL

大阪大学 微生物病研究所 環境応答研究部門 生体統御分野 石谷研究室
http://www.biken.osaka-u.ac.jp/laboratories/detail/52

用語説明

胚の発生

胚とは、受精卵から発達・成長途上の赤ちゃんを指し、人間でいえば「母親のお腹の中で発達・成長中の胎児」に相当する。胚の発生とは、胚の体が形成、成長する過程を指す。

不良細胞

機能が破綻した細胞、あるいは、場に不適応で組織機能に負の影響を及ぼしうる細胞。

モルフォゲン勾配

生物の体あるいはそれを構成する組織にパターンを与える分子システム。生物の体や生体組織が正常に機能するためには、特定の機能を備えた細胞を適切な位置に適切な数だけそれらの内部に配置する必要がある。このような細胞配置(パターン)は、モルフォゲン勾配によって作り上げられる。モルフォゲンは発生源から濃度勾配を持って発せられ、その濃度に応じて異なる強さの情報を細胞に入力し、結果としてモルフォゲン情報強度の勾配(モルフォゲン勾配)が形成され、この勾配に沿って各細胞が自身の位置情報を把握し、その位置に適合する運命を選択する。ショウジョウバエで「ビコイド」という分子の濃度勾配が、生体の「前」と「後」を作るモルフォゲンであることを世界で初めて発見したドイツのNusslein-Volhardは、1995年ノーベル医学生理学賞を受賞している。

イメージング解析

生物の体内における細胞動態、細胞内の分子動態を可視化する研究方法。最も多くの情報を得ることができ、生命現象を最も効果的に理解できる方法の一つである。対象とする生物の透明度が高ければ体内深部までイメージングが可能で、かつ対象とする生物が小さければ分子動態、細胞動態、個体の変化を同時に把握できる。このため、小さく透明度の高い生物に対して極めて有効である。マウスなど大きな動物で行う場合は、臓器を取り出したりレンズを体内に入れたり、あるいは動物を殺して固定し透明化などの処理を施す必要がある。

ゼブラフィッシュ

ヒマラヤ周辺の温帯地域の池の浅瀬や田んぼのそばに棲息するコイ科の淡水魚。胚発生が早く(受精から基本的な体が出来上がるまで24時間程度)、胚が小さく透明なため、イメージング解析に最も適したモデル脊椎動物であると考えられている。また、人と類似した遺伝子、細胞、臓器を有し、かつ、容易に飼育・実験操作できることなどから、「ヒト疾患研究の第3のモデル動物」として米国NIH(国立衛生研究所)に指定されている(第1、第2のモデルはマウスとラット)。本国では同サイズの小型魚類としてメダカが有名であり、近年の研究論文数や研究者人⼝はゼブラフィッシュの方が圧倒的に多いにも関わらず、よく混同される。メダカが遺伝学解析に適しているのに対してゼブラフィッシュは胚を用いた解析などに適しており、研究用途が異なる。どちらも優れた実験動物である。

細胞死

多細胞生物が発生、機関形成する際、生体の恒常性を維持するために細胞が計画的に排除される「アポトーシス」と、組織障害などで細胞が死ぬ「ネクローシス」の2種類がある。本研究における細胞死はアポトーシスを指す。